11・18「創価学会創立記念日」特集㊤

牧口先生㊨と戸田先生。師弟一体の闘争によって、「創価教育学体系」が発刊された
1930年(昭和5年)11月18日、創価学会の初代会長・牧口常三郎先生は、第2代会長・戸田城聖先生と共に『創価教育学体系』第1巻を発刊。それが、「創価学会創立記念日」の淵源である。「教育は子どもの幸福のためにある」――牧口先生が提唱した教育哲学を、戸田先生が継承し、池田大作先生は両先生の悲願であった創価教育の機関を創立した。11・18「創価学会創立記念日」特集㊤では、創価教育の源流をたどる。
Ⅰ、「創価教育学体系」発刊

各国語に翻訳されている牧口先生の「創価教育学体系」
1930年(昭和5年)のある冬の夜。
牧口先生と戸田先生が火鉢を挟み、深夜まで語らいを続けていた。
自らの教育学説を世に残したいという牧口先生の考えを聞くと、戸田先生は「先生の教育学は、何が目的ですか」と問うた。
「価値を創造することだ」との牧口先生の答えに、戸田先生は提案した。
「創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
「創価」の二字が紡ぎ出された瞬間だった。
当時、牧口先生は、東京・白金小学校の校長を務めていた。児童の幸福を第一とする教育で、同校を名門校に育てた。
『創価教育学体系』の発刊に向けて、戸田先生は、牧口先生が書きためた膨大な量の原稿を整理した。出版の手配や資金面でも、先師を支えた。
戸田先生の戦いは、それだけではなかった。東京市教育局(当時)が、牧口先生を白金小学校の校長職から追い出そうとしていた。その策謀を防ぐことにも、時間を費やした。
『創価教育学体系』は総論が4巻、各論が8巻の計12巻が計画された。第1巻の表紙は、題字と牧口先生の著者名が金文字で飾られている。そこには、戸田先生の弟子としての真心が込められていた。
また、同巻の奥付には、「著作者・牧口常三郎」「発行兼印刷者・戸田城外」と刻まれている。
牧口先生は緒言に、「其資財を抛って本学説の完成と普及に全力を捧げんと決心し、今では主客顛倒、却って余が引摺られる態になった」と、戸田先生への感謝を記した。
同著の発刊後、幾つもの雑誌や新聞に書評が載った。東京朝日新聞には「これこそ本当の教育学」(1931年3月27日付)と紹介されている。
第1巻には新渡戸稲造、柳田国男、田辺寿利という日本が誇る学識者が序文を寄せた。社会学者の田辺氏は、「『創価教育学』は、現代の日本が最も要求するところの教育学」と絶賛した。同著は多くの人々の注目を集めた。
Ⅱ、牧口先生の殉教

法難の地である静岡・下田に立つ「牧口常三郎先生 法難頌徳之碑」
牧口先生、戸田先生は当初、教育の改革をもって、社会の繁栄と平和の実現を目指していた。だが、その教育改革の根底に、仏法の必要性を自覚する。
牧口先生は述べている。「所詮宗教革命によって心の根柢から建て直さなければ、一切人事(人間社会の一切の出来事の意)の混乱は永久に治すべからず」
「宗教革命」の道へと進んだ牧口先生が重視したのは、座談会である。
1941年(昭和16年)3月に治安維持法が改正公布されると、特高警察の監視下で座談会が行われるようになる。
そうした中にあっても、牧口先生は、同年5月からの2年間だけで、240回を超える座談会に出席。監視に来た特高刑事に、「よく来た。こっちへいらっしゃい」と、臆することなく声をかけた。
43年(同18年)6月、軍部政府の弾圧を恐れた宗門は、牧口先生、戸田先生に「神札を受けてはどうか」と勧める。しかし、牧口先生は言下に拒否した。
翌月、牧口先生と戸田先生は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で投獄される。両先生は、迫害に屈することなく、獄中でも自らの信念を貫いた。
戸田先生は独房で一人、高齢の牧口先生の身を案じた。44年(同19年)11月18日、牧口先生は73歳で、死身弘法の崇高な生涯の幕を閉じた。その事実を、戸田先生は取り調べの判事から告げられた。戸田先生は後に語っている。
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
牧口先生は生前、戸田先生に語っていた。
「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。もし、私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から大学まで、私の構想する創価教育の学校をつくりたいな」
この先師の悲願を、戸田先生は出獄した後も、片時も忘れることはなかった。
Ⅲ、大学の構想を託す

恩師の胸像を前に、在りし日をしのぶ池田先生と香峯子夫人(2005年11月、東京・新宿区内で)
『創価教育学体系』が発刊されてから20年が経過した1950年(昭和25年)8月、戦後の不況で、戸田先生が経営する信用組合は破綻が決定的になった。
社員が次々と去る中、池田先生は一人、恩師を支えた。激務で疲労が重なり、体重は13貫(約49キロ)を切った。冬を前に、着るオーバーさえなかった。
戸田先生は苦境の渦中にあっても、悠然と未来の構想を巡らせた。11月12日、牧口先生の七回忌法要で、恩師は『創価教育学体系』について言及。志半ばで殉教した先師をしのび、弟子としての誓いを述べた。
4日後の16日、戸田先生は、会社近くの大学の学生食堂で、牧口先生から託された創価大学の構想を、池田先生に語った。
「人類の未来のために、必ず、創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。大作、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
この日、池田先生は日記に記した。「昼、戸田先生と、日大の食堂にゆく。民族論、学会の将来、経済界の動向、大学設立のこと等の、指導を戴く。思い出の、一頁となる」
その後も、戸田先生は池田先生がいる場で、創価教育への思いを述べている。
54年(同29年)9月、東京・氷川へバスで向かう途中、八王子方面を通りかかると、恩師は池田先生に、「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな」と語った。
翌55年(同30年)1月、師弟して高知を訪れた折、会員から学校の設立に関する質問を受け、戸田先生は「一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一の学校にするよ!」と宣言した。
牧口先生から戸田先生に託された創価教育機関の設立という“夢”を、戸田先生は池田先生に託した。
第3代会長に就任する1カ月前の60年(同35年)4月5日、池田先生は香峯子夫人と共に、東京・小平市を訪問。創価学園の建設用地を視察し、敷地の購入を決意する。先師・恩師の悲願の実現へ、大きな一歩が踏み出された。
Ⅳ、先師・恩師の夢を実現

2004年1月、創立者・池田先生は創価大学に足を運び、中央図書館を見学した
1965年(昭和40年)11月、「創価大学設立審議会」が発足する。第1回の審議会で、池田先生は、68年(同43年)ごろに高校を開校し、70年(同45年)以後に大学の設立に取りかかりたい、と語った。
審議会では、法律的な準備に当たる委員会、大学・高校の設立の具体的な準備を進める委員会を設けることなどが決まった。創価大学・高校の誕生へ、本格的なスタートが切られた。
3年後の68年(同43年)、創価中学・高校が開校する。さらに、3年後の71年(同46年)、創価大学が開学した。
71年は、牧口先生の生誕100周年の節目であり、創価大学が開学した4月2日は、戸田先生の祥月命日である。その意義深き日に、創大は誕生した。開学5年後の76年(同51年)には通信教育部が設置される。
牧口先生は、1905年(明治38年)に設立された、女性のための通信教育を行う「大日本高等女学会」の中心者だった。同会は最盛期、全国に2万人余の受講生がいたという。日露戦争の後、学びを求める女性たちの希望となった。
戸田先生も、戦争で学べなかった青少年のために通信教育事業を展開した。万人に開かれた教育は、両先生の理想だった。
だからこそ、創価大学の通信教育部の設置は、池田先生の悲願でもあった。通信教育部の開設について、先生は「両先生(牧口先生・戸田先生)への報恩の慶事」と述べている。
78年(昭和53年)、東京創価小学校が誕生する。池田先生の手によって、小学校から大学までの創価一貫教育が現実のものとなった。
2001年(平成13年)には、アメリカ創価大学(SUA)が開学。海外では、香港、シンガポール、マレーシア、韓国に幼稚園、ブラジルに創価学園が設立されている。明年、マレーシアに、中高一貫の創価インターナショナルスクールも開校予定だ。
創価教育の大光が、世界を照らしている。
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