【新春特集】
戸田大学――若き日の池田先生が恩師から受けた個人教授

2020年01月01日

「私は今も戸田大学の卒業生として、恩師と心の対話を続けながら戦っています」――池田大作先生は、若き日に第2代会長・戸田城聖先生から万般の学問を学んだ個人教授を、「戸田大学」と呼んだ。本年は、講義の開始から70周年となる。世界に広げた創価の平和・文化・教育の大道も、その礎は「戸田大学」の薫陶にある。ここでは、その歴史を紹介する。

“厳冬期”に始動
「学」は「光」である。その光が未来を照らし、世界を結ぶ。
師が弟子に、あらゆる学問を教授した「戸田大学」――それは学会の“厳冬期”に始まった。
池田先生は、1949年(昭和24年)1月、戸田先生が経営する出版社で働き始めた。その前年から、大世学院(現・東京富士大学)の政経科夜間部に通っていた。
だが、出版社は暗礁に乗り上げ、池田先生が編集長を務めた「少年日本」は廃刊。戸田先生は新たに信用組合を設立し、再起を図っていた。師と生涯を共にしようと誓った池田先生もまた、深夜まで奮闘を重ねた。
50年(同25年)の年頭、戸田先生は言った。「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
池田先生が、22歳となる年の寒風すさぶ日であった。その年の秋ごろから、戸田先生は、日曜日には、池田先生を中心に何人かの代表を自宅に呼んで、御書講義をするようになった。
不況下で、信用組合は多額の負債をかかえて、8月に業務停止となっていた。その絶体絶命の状況の中で、戸田先生は講義を行ったのである。
恩師を一身に支え続けた池田先生は、事業の苦境を乗り越えれば、夜学の復学を考えていた。
年が明けると、戸田先生は語った。
「ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。待っていてくれたまえ。学校は、ぼくに任しておけ」

51年(同26年)2月、戸田先生は、御書講義のほか、古今東西の名著をもとに講義を始めた。さらに、日曜日の講義は、学問百般にわたっての、池田先生に対する個人教授となった。講義は時に、午前も午後も続いた。
ある講義が修了した時、戸田先生は机の上に飾ってあった一輪の花を取り、池田先生の胸に挿した。
「この講義を修了した優等生への勲章だ」
「本当によくやってくれているな。金時計でも授けたいが、何もない。すまんな……」
池田先生は、この感動を記している。
「その花こそ、世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章であると思った。感動を覚えた。自分は最大の幸福者であると感じた」と。
やがて、戸田先生の講義は、日曜だけでは時間が足りなくなり、52年(同27年)5月8日からは、会社の事務所で、始業前の約1時間、早朝講義が実施されるようになった。他の数人の社員も受講が許された。

真剣勝負の講義

歌の指揮を執る戸田先生と池田先生(1958年3月、静岡で)。青春時代、池田先生は日記につづった。「此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」と

午前8時、池田先生を中心に皆で戸田先生を待つ。
戸田先生が「よー」と姿を現す。
「おはようございます!」
元気な声が返ってくる。講義の開始である。
科目は「経済学」「法学」「化学」「天文学」「日本史」「世界史」「漢文」「政治学」などである。教科によっては、その分野の最新の著作が選ばれた。「君たちは、全部、頭の中に入れておけ」と、メモを取ることは禁じられた。
ある講義で、化学反応の「化合」がテーマに。
水は水素と酸素が化合して生成される。その際、水素と酸素の混合気体の燃焼が必要になる。
戸田先生は「これを信心に譬えれば……」と言葉を継いだ。
「我々の信力と行力が御本尊の仏力・法力に照らされ、化合することで、功徳が生じるのである。信力と行力が燃え上がって、化合しなければならない」

天文学の講義では、『地球と天体』(F・S・テーラー著)の次の箇所に焦点が当てられた。
「……われわれの望遠鏡の視界のうちには、惑星系を持つ恒星が一千万箇もあると考えてよい。(中略)もし百箇の惑星のうち一箇がこれらの(注=空気、水、温度などの)条件を満足させるならば、生命を維持する能力のある地球が、十万箇もあるかもしれない」
この一節から、戸田先生は展望を広げて語った。
「この大宇宙には、地球と同じような惑星が、いくつもある。仏法で説く『他方の国土』とは、そういう所をいうのである」
御書を根幹に据え、真剣勝負で、あらゆる学問を自在に論じた。
「この理論には筋が通っていない」「この学者は、一部の原理をもって、すべてに当てはめようとしている」など、鋭い指摘も加わった。
また、戸田先生は折に触れ、「今、何の本を読んでいるか?」「それでは、読んだ本の粗筋を言ってみよ」と質問する。時を惜しむかのような恩師の薫陶であった。
池田先生の日記には、こう決意がつづられている。
「先生の、身体をいとわず、弟子を育成して下さる恩――吾人は、いかに返さんや。今だ。力、力、力を蓄える時は。あらゆる力を、後代の準備として蓄えん」(53年12月22日)

識者との語らい
「大阪の戦い」「山口開拓指導」など、広布の激戦の中でも、池田先生の人知れぬ研さんは続いた。戸田先生は未来を見つめていた。
「『一切の法は皆是れ仏法』である。ゆえに、世界のいかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力を鍛えておくからな」
恩師の逝去から約10年後の67年10月、池田先生は、欧州統合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵と会見。初の本格的な“西洋文明との対話”に臨んだ。
伯爵は、28歳で自著『パン・ヨーロッパ』を出版し、ヨーロッパ統合への行動を開始。平和建設に生涯をささげてきた知性である。

二人は70年10月にも会談を重ね、後に対談集『文明・西と東』を発刊。内容は、国際情勢、国連論、国家論、公害問題、民主主義、教育論など多岐に及んだ。中でも世界平和が大きな主題に。池田先生は訴える。
「共存への機運がいかに高まったとしても、国家間の対立を止揚するものがなければ、第三次大戦は阻止できないかもしれません。この、あらゆる対立を超えさせるものを、人類の精神の中に構築しなければならないと思います」「つまり、地球民族としての普遍的な精神を打ち立てなければならないと思います」
恩師が提唱した「地球民族主義」を時代精神に――対談の随所に戸田大学での薫陶が躍如としている。同書は、池田先生が海外の識者と編んだ対談集の第1号となる。
以来、先生はイギリスの歴史学者トインビー博士をはじめ、世界の知性との対談を続けてきた。先生の著作の海外出版は、48言語2000点に達する。

「世界一」の誇り
小説『新・人間革命』第19巻「陽光」の章に、池田先生はつづった。
「戸田大学は世界一の、最高の大学であると確信しています。
私は、その戸田大学の優等生として、それを世界に証明する義務があると思っています。いや、必ずそうしてみせます。それが弟子の道です」
これまで池田先生には、世界の大学・学術機関から395もの名誉学術称号が授与されている。その第1号であるモスクワ大学の名誉博士号の授与から、本年で45周年を迎える。
先生は、戸田大学で学んだことを最大の誇りとし、自身への顕彰を牧口先生、戸田先生にささげてきた。
世界24カ国からの国家勲章、また数多くの名誉市民称号――それらの栄誉もまた、「戸田大学」が「世界一」であることの証しとなった。