初級・3級試験に向けて㊤
23年09月15日
「弘教」とは「相手の仏界を礼拝する」こと
連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を掲載します。今回は10月1日に行われる「教学部初級試験・青年部教学試験3級」のために、出題範囲である御書2編について、先生の言葉を紹介します。

【立正安国論】
慈悲の香りで包み込む

大聖人は立正安国論で、客と対話する主人を「蘭室の友」(全31・新43)と呼んでいます。蘭の部屋では、その香りが自然に衣服などに染みついていきます。同様に、対話は、慈悲の香りが相手をつつみ込むようでありたい。

弘教は押しつけでもなければ、組織のためでもない。弘教は、相手の仏界を礼拝することだから、最高に相手を尊敬する行為なのです。
(『法華経の智慧』普及版〈上〉、445ページ)

創価の師弟の強き祈り
第二代会長に就任された戸田先生は、「楽土日本を築くのだ」「この地上から『悲惨』の二字をなくすのだ」との一念で、一段と強盛なる祈りを開始された。

弟子の私も、第三代に就任した五月三日(一九六〇年)より、いやまして強く、祈り続けてきた。

「世界が平和であるように」

「大地震がないように」

「豊作であるように、飢饉がないように」

三災七難に負けずに、民衆の安穏と社会の繁栄、そして地球の平和を実現する。この人類の悲願へ、我らは自行化他の妙法を朗々と唱え、立正安国の挑戦を貫いていくのだ。
(『随筆 永遠なれ創価の大城』、70ページ)

「人間」に焦点を当てよ
昭和五年(一九三〇年)、牧口先生は『創価教育学体系』の第一巻を出版された。

当時は、世界大恐慌の嵐が吹き荒れ、経済の不況は深刻。時の総理大臣・浜口雄幸が狙撃されるなど、騒然たる時世であった。今の世相と似ている。軍国主義の暴走も始まっていた。

「立正安国論」には仁王経の文を引かれ「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」(全31・新43)と。

その混迷のなかで、牧口先生の慧眼、鋭い洞察力は、すべて「人間」に光を当てておられた。

仏法の哲学を根底に「人間」をつくり、「人間」を育てることを、すべての機軸とされ、根本とされた。

政治も経済も宗教も、“人間をつくる”ことを忘れれば必ず行き詰まる。「人間」に焦点を当てるしかない。「人間」をつくる以外にない。
(『池田大作全集』第85巻、378ページ)

「社会への貢献」が使命
大聖人は「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(全31・新44)と仰せである。

自身の幸福を願うならば、まず社会の繁栄と平和を祈るべきであるとの御指南である。

仏法即社会なるがゆえに、仏法者は、自身の人間革命の光をもって社会を照らし、時代建設の汗を流し続けるのだ。

わが学会が、その名称に「創価」すなわち「価値の創造」を掲げていること自体、社会への貢献を使命とする宣言といってよい。また、そこに学会が、人類史を画する、人間宗教たるゆえんがある。
(小説『新・人間革命』第14巻「智勇」の章、97ページ)

全ては一念の変革から
わが一念の変革から、人生も、環境も、やがて世界も変えていける。その人間革命の哲理が、どれほど勇気と希望の光源となることか。

「自他共の幸福」を祈り、友情の対話と社会への貢献を積み重ねることこそが、最も地道でありながら、最も確実な世界平和への直道なのだ。

「立正安国論」の結論の段には、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり」(全32・新45)と呼び掛けられている。
(『随筆 輝く民衆の大城』、62ページ)

どこまでも「対話」で!
人間のため、人類のために! ここに日蓮仏法の本質も、学会の精神もある。

「立正安国」即「世界平和」のために、我らは前進する。どこまでも「対話」という平和的手段で、人間と人間を結ぶのだ。

主人と客人の間に交わされてきた「立正安国論」の対話は、「唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ」(全33・新45)と、客の清々しい決意で結ばれる。すなわち、一つの対話の終わりは、新たな対話への出発であった。

今、日本中、世界中で、わが創価の同志が展開している快活な「立正安国」の対話から、限りない希望が生まれ、広がっている。(『随筆 我らの勝利の大道』、169ページ)

牧口先生の座像を、池田先生ご夫妻が見つめる(2001年7月、八王子市の東京牧口記念会館で)。大聖人直結、御書根本の生涯を貫かれた牧口先生。学会は永遠に、御書と共に前進する

【日女御前御返事】
なにを根本に生きるか

無宗教という人にも、何か、心の底で、いちばん尊敬しているものがある。その人がいちばん大切にしているもの、それが本尊です。

口では何と言おうと、ある人は、「お金」が本尊になっている。ある人は「地位」が本尊になっている。ある人は「恋人」や「家族」が本尊になっている。ある人は「知識」が本尊になっている。また、漠然とした神とか天とか真理とかを本尊としている人もいるでしょう。

根本として何を尊敬して生きているか――本尊によって人生が変わってしまう。

日蓮大聖人の仏法では「仏の生命」を本尊とする。大宇宙と一体の永遠の大生命を本尊とするのです。しかも、その本尊とは、決して、遠いところにあるのでも抽象的なものでもない。自分自身の生命そのものでもある。

日蓮大聖人は言われている。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(全1244・新2088)――この御本尊は、まったく別の所に求めてはならない。ただ、われら凡夫が御本尊を信じて持ち、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉体の中にいらっしゃるのである――と。
(『青春対話1』〈普及版〉、351ページ)

「信」こそ成仏への軌道
大聖人は、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」(全1244・新2088)と仰せです。

成仏への根本の軌道こそ「信心の二字」です。智慧第一の舎利弗でさえ、「信」によって法華経の極理に入ったのです。それが「以信得入(信を以て入ることを得)」です。

末法の凡夫は、仏の大境涯を直ちに顕された御本尊を拝する時、より深く、より強き信によって、元初の晴ればれとした御本尊の世界に入ることができるのです。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻、27ページ)