夫婦の絆 23年08月04日

どんな時もわが家らしく
人間ですから、ミスもある。調子の悪い時もある。そんな時にこそ、お互いに助け合い、補い合い、守り合っていく――わが家らしいチームワークで、どんなピンチもチャンスへと変えながら、勝ち進んでいきたいものです。

スポーツを見ると、強いチームに共通しているのは、互いによく声を掛け合っているということです。夫婦という幸福勝利を目指すチームにあっても、エールの掛け合いが大事でしょう。(『ハッピーロード――希望の光 歓びの詩』、132ページ)

守るべき家族がいるから
創価学会の牧口常三郎初代会長も、同居していた寝たきりの義母を介護されていた。自ら背負って、お風呂場へ連れていき、入浴の手伝いもされたという。

守るべき家族を抱え、慈しむことで、互いの愛情はより深まる。和楽の紐帯も強まり、一家全体の繁栄と幸福につながる。(『新・女性抄』、86ページ)

相手を思いやる心の余裕
私どもの現実の生活においても、“心のすれ違い”が、さまざまな、いがみあいや不幸な関係をもたらす場合が多い。心に余裕をもち、虚心坦懐に相手の立場や状況を知っていけば、無価値な、起こらなくてもよい“いがみあい”は、ずっと少なくなるにちがいない。

信心の世界でも、夫が信心しないとか、親族や友人が無理解であるといった場合にも、意外と、こうした心のすれ違いが原因となっていることが多いのではないかと心配する。こちら側の一方的な考え、論理の押しつけではなく、相手の立場や考えをよく認識したうえでの、言動の対応を忘れてはならないと重ねて申し上げておきたい。
(『池田大作全集』第68巻、42ページ)

まるで自然のハーモニー
ともに社会貢献へと進む門下の夫妻の姿を、日蓮大聖人は次のようにたたえられています。

「鳥の二の羽そなはり車の二つの輪かかれり・何事か成ぜざるべき、天あり地あり日あり月あり日てり雨ふる功徳の草木花さき菓なるべし」(全1249・新2095)と。

つまり、大いなる目的に生きる夫婦の絆とは、鳥に二つの翼がそなわり、車に両輪があるのと同じようなものである。

それは「大空」と「大地」、また「太陽」と「月」、そして「陽光」と「慈雨」という自然のハーモニーにもたとえられる。
(『池田大作全集』第16巻、340ページ)

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共に笑顔を交わしながら、人生の旅路を歩んできた池田先生と香峯子夫人(1979年7月、静岡で)。先生は語っている。「私の妻は、いかなる試練の時も、笑顔をたやさず、共に進んでくれました。私は妻への感謝を込めて『微笑(ほほえ)み賞』を贈りたい」

それぞれ違った愛情の形
ひとくちに夫婦の愛情といっても、形は千差万別であろう。はた目には“亭主関白”のように見えても、それでいて不思議な和合の姿を示している場合もある。逆に“かかあ天下”のようでありながら、琴瑟相和しているケースも少なくない。また、常に起居を共にしていれば、愛情が通いあうというものでもないようである。忙しい夫婦が、年に一度か二度、時間の合間を縫って外で食事をしてきた思い出を大切にしている話などを耳にすると、思わずほほえみが浮かんでくるものだ。形ではない。
(『生活の花束』、123ページ)

名画家のように自由自在
結婚は、それ自体が目的ではない。

大事なことは、あくまでも、一人の人間としての尊厳であろう。人は、誰も皆、生まれてくる時も一人、死んでいく時も一人である。

結婚するかどうか等で、幸福は決まらない。

幸福を決めるのは、生き甲斐があるかどうか、充実があるかどうかである。

周囲に「希望」がなければ、自分で創ればよい。

心というものは、名画家のように、いくらでも自由自在に「希望」を描き出していけるからだ。
(『新・女性抄』、107ページ)

波乱と苦悩を共に越えて
固定、安定してなにも風波がないのが幸福かというと、決してそうではない。波乱と苦悩に遭い、それらを夫婦で共に乗り越えたという喜びの共有が、二つの心を固く結びつけるのである。
(『生活の花束』、128ページ)

楽しく朗らかに生きよう
夫婦とも同じくらいの境涯だから、けんかになる。妻や夫を、自分の子どものように思えるようになったら、境涯が段違いだから、けんかになりません。がみがみ言われても「おっ、まだ元気だな」、「生きてる証拠だ」というくらい、楽しく、朗らかに生きればいいんです。
(『法華経の智慧』普及版〈下〉、485ページ)

「人間心理の微妙なアヤ」
(夏目漱石の小説『道草』の)主人公・健三は三十代の大学教師。妻の名はお住といい、高級官僚の娘である。(中略)

この物語の中に、忘れがたいこんな場面がある。

健三が少しでも家計の足しにしようと思って、今で言うアルバイトをする。そこには、妻のやりくりを楽にしてあげたいとの、けなげな心があった。しかし、彼が稼いだ給金を渡したところ「その時細君は別にうれしい顔もしなかった」と言うのである。

漱石は、この時の二人の心理を次のように書いている。

お住は「もし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっとうれしい顔をする事ができたろうにと思った」と言う。

一方、健三は「もし細君がうれしそうにそれを受け取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」と言うのである。

人間心理の微妙なアヤをついた、さすがに文豪の名にふさわしい鋭い筆の冴えである、と私は感心した。一事が万事である。互いが、かたくなに相手に期待し要求するだけで、自分を省みるゆとりと思いやりがなかったならば、ことあるたびに心のミゾは深まるばかりであろう。
(『池田大作全集』第119巻、413ページ)
※夏目漱石『道草』は、岩波文庫からの引用

同じ方向を向いて前へ!
“夫婦”も、相手を見つめ合うだけの関係であれば、その世界は狭く、互いの向上も、前進も乏しい。しかし、二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。夫婦愛、そして同志愛に結ばれた夫婦の絆ほど、強く、美しいものはない。(小説『新・人間革命』第28巻「革心」の章、312ページ)