【妙一尼御前御消息】
法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。
(新1696・全1253)
一人も残らず幸福に
試練の厳冬の中にある誰もが、一人残らず幸福勝利の大歓喜の春を迎えられるように!――この御本仏の大慈大悲が胸に迫ってならない。
戸田先生は、こうした御聖訓を通されながら、「大聖人が、功徳の出ない、境涯の開けない戦いをさせるわけがないんだよ」と言われていた。
御書には、一人にここまでも心を配られるのかという、大誠実の「人の振舞」が随所に示されている。
その究極の人間主義を深く学びながら、私たちも、一人ひとりを大切にし、一人ひとりと仏縁を結んでいくのだ。
(『随筆 輝く民衆の大城』、65ページ)
試練の冬に挑みゆけ
冬の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る春を確信し、どう深く生きるか――そこに勝利の要諦がある。
法華経の信心は「冬」のようなものです。
その厳しい宿命転換の戦いがあって初めて「春」を到来させ、福運を築くことができる。ゆえに試練の冬を避けてはならない。
鍛錬の冬に挑戦しゆく勇気があれば、私たちは、成仏という「偉大な春」へ、広宣流布という「最高の春」へと、無限に前進していくことができます。
(『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻、22ページ)
【一生成仏抄】
衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。
(新317・全384)
一念の変革こそ重要
日蓮大聖人は万人が成仏を成し遂げるために御本尊をあらわされ、「南無妙法蓮華経の唱題行」を確立されました。全民衆が等しく実践できる仏道修行の道を開いてくださったのです。まさに、偉大な宗教革命です。
日蓮仏法においては、「わが一念の変革」こそが重要であると明かされているのです。
一般的に「衆生」と「仏」とは、かけ離れた存在と考えられがちです。しかし大聖人は、両者に隔たりはなく、「迷い」と「覚り」の違いにすぎないと仰せです。
この「迷い」の生命を、そのまま「覚り」の生命に変革する方途が唱題行です。
(『信仰の基本「信行学」』、46ページ)
生命を「磨く」唱題行
曇れば鏡としての用をなさない。だから絶えず磨かなければなりません。ゆえに、放置しておけば無明に覆われてしまう衆生の生命を鏡に譬えるのです。
そして、鏡本来の働きを取り戻すためには「磨く」という行為が不可欠です。また、鏡は、一度だけ磨けばそれでよいということもありません。磨き続けることが大事です。そして、磨けば常に明鏡として鏡の特性を発揮し続けることができます。
まさにこの譬喩が的確に物語っているように、私たちの唱題行は、無明の汚れを払い、法性の輝きを増していく生命錬磨の戦いなのです。
(『一生成仏抄講義』、90ページ)

1994年3月に行われた東北栄光総会でスピーチする池田先生(東京・八王子市で)。
難を乗り越える不惜身命の信心を示された開目抄の一節を通し、「仏といっても特別な存在ではない。戦い続ける心が『仏』、行動し続ける姿が『仏』である。魔と戦いきる人が『仏』なのである」と訴えた
【開目抄】
我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。
(新117・全234)
師弟一体の仏法精神
普通の宗教者であれば、「我が弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかけるお心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
そして、その師弟を貫く強靱な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦い抜いていかなければなりません。
(『開目抄講義』〈下〉、127ページ)
今こそ「まことの時」
師の指導を、わが身に引き当てて、真摯に姿勢を正していくのか、他人事のように聞き流していくのか――。この「如是我聞」の一念の厳しき差に、師弟を貫いていけるか、愚かなる人間と堕ちていくか、全く厳しい勝敗の分かれ道がある。ゆえに、仏法は「勝負」だと仰せなのだ。
「まことの時」との御聖訓は、「いつか」ではない。
常に常に、また常に、「今」である。
「今から」なのである。
(『池田大作全集』第137巻、320ページ)
|