真剣勝負の祈りで病を克服
〈1978年(昭和53年)12月、山本伸一は三重・名張本部の高丘秀一郎の家を訪問する。高丘は前年から原因不明の視神経炎を患い、医師からは、現在の医療ではなすすべがなく、良くなることはないと告げられる。彼は、信心で克服してみせると腹を決めた〉
一九七八年(昭和五十三年)四月上旬、高丘は、幹部に指導を受けようと、三重県長の富坂良史に手を引かれ、立川文化会館を訪ねた。そこで伸一と、ばったり出会ったのだ。
「三重の名張から来ました」
語らいが始まった。事情を聞いた伸一は、大確信を注ぎ込もうとするかのように、力を込めて語った。
「断じて病魔になど、負けてはいけません。早く、良くなるんです。あなたには、名張の広宣流布を成し遂げていく、尊い使命がある。病気も、それを克服して信心の偉大さを証明していくためのものです。そのために自らつくった宿業なんです。したがって、乗り越えられない宿命なんてありません。地涌の菩薩が病魔に敗れるわけがないではありませんか!」(中略)
高丘は、胸に一条の光が差し込む思いがした。勇気が、ほとばしった。希望が芽吹いた。強い確信と祈りを込めて、真剣勝負の唱題がさらに続いた。
“先生に心配をかけて申し訳ない。必ず、治してみせる!”
懸命に唱題を重ねるうちに、医師も匙を投げた病状が回復し始めた。右目に光は戻らなかったが、左目の視力は次第に良くなり、御本尊の文字が、しっかり見えるようになったのである。
彼は、「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(全1351・新592)との御聖訓を嚙み締めるのであった。
それから間もない四月二十二日、伸一は、翌日に行われる「三重文化合唱祭」に出席するため、三重研修道場を訪問した。伸一は、研修道場に来ていた高丘秀一郎に声をかけた。
「その後、目の調子は、どうですか」
高丘は、満面の笑みで答えた。
「はい。先生にご指導を受けてから、真剣に唱題に励みましたところ、十日ほどで『聖教新聞』の文字が読めるようになり、今は御書の文字が読めます。日ごとに、視力は回復しつつあります」
「それはすごいね。病を治す根本の力は、自身の生命力なんです。その手助けとなるのが医学の力です。信心根本に、どこまでも生命を磨き、鍛えていくことが大事なんです」
伸一は、合唱祭の次の日も高丘と会った。
「今こそ、唱題し抜いて、病を見事に乗り越え、信心への大確信をつかむ時です。そして、仏法の偉大さを証明するんです。それがあなたの使命です」(中略)
三重研修道場での語らいから七カ月余が過ぎていた。伸一を自宅に迎えた高丘は、頰を紅潮させながら報告した。
「左の目の方は、題目が五十万遍になった時に視力は〇・五になり、七十万遍で〇・七に、百万遍になったら一・〇になっていたんです。
右目は見えませんが、生活をするうえでは、ほとんど不自由は感じません。仏法の力を、心の底から感じています」
(第29巻「力走」の章、154~156ページ)

教学試験の受験者を激励する池田先生(2002年9月、東京・八王子市の創価女子短期大学で)。「広宣流布のために挑戦したことは、全部、永遠の福運となり、深き思い出になるのです」と
信心根本に職場で実証を!
〈デザイン会社に勤務していた波留徳一は、1961年(昭和36年)に入会。やがてスーパー業界に転職し、重要な仕事を任されるようになる。その一方で、多忙さに流され、信仰の世界から遠ざかっていった〉
波留は、随所で行き詰まりを感じ始めた。店舗づくりのアイデアの枯渇、自信喪失、心身の疲弊、仕事への意欲も失っていった。
その苦しさを紛らすために酒に溺れた。体調も崩し、円形脱毛症にもなっていた。妻との喧嘩も絶えなかった。迷路をさまようような日々が続いた。
そんな彼のもとに、男子部の先輩が、何度も、何度も、足を運んでくれた。
先輩は、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(全254・新146)との御聖訓を引いて訴えた。
「この御文は、『天が晴れるならば、大地は自然に明るくなる。同様に法華を識る者、つまり、妙法という一切の根源の法を体現された大聖人は、世の中の事象も、当然、明らかに知ることができる』という意味だよ。
『天が晴れる』というのは、ぼくらの立場で言うならば、一点の曇りもない、強盛な信心だ。強い信心に立てば、『大地』すなわち仕事も含めた生活の面でも、おのずから勝利していくことができる。だから、もう一度、信心で立ち上がるんだよ」
波留は、学会の先輩の激励に、“よし、もう一度、本気になって信心してみよう”と思った。時間をこじ開けるようにして唱題に励み、学会活動に飛び出した。広宣流布の使命に目覚めると、歓喜があふれ、仕事への挑戦の意欲がみなぎった。自信も取り戻した。(中略)
仕事は、ますます増えていったが、学会活動を優先させた。“信心していれば、仕事の面でも守られる!”という確信があったからだ。だが、それが、いつの間にか、甘え、油断となり、仕事が疎かになっていった。
遂に、ある時、上司から、「仕事と信心と、どっちが大事なんだ!」と叱責された。
“これでは、いけない! 周囲の人たちは自分の姿を通し、創価学会を見ているんだ”
「信心第一、仕事も第一」と決めた。両立への本格的な挑戦が始まった。
店舗の改装工事は、スーパーの定休日に行う。皆が休んでいる時も、波留は改装の現場に出かけ、業者と意見交換し、一緒に作業に汗を流した。改装資材のベニヤ板の上で仮眠を取って、泊まり込みで仕事を続けたこともあった。
学会活動に参加しても、深夜には、仕事に戻った。また、夜更けて、連絡事項や激励の言葉を書いた手紙を、メンバーの家のポストに入れてくることもあった。
“無理だ!”と思えても、やり切ろうという執念を燃やす時、新たな工夫が生まれる。(中略)
波留は、職場では、係長、課長と昇進し、店舗開発を一手に任されるようになっていったのである。そして、部長、取締役を歴任し、一九九三年(平成五年)には、常務取締役になっていく。
(第24巻「灯台」の章、315~319ページ)
「冬は必ず春となる」と前進
〈鹿児島・奄美群島にある喜界島に住む富島トシは、夫に続いて次男も亡くし、経済苦など、宿命にあえぐ中で、友人から信心の話を聞く。その確信あふれる言葉に彼女は入会を決意する。1956年(昭和31年)のことであった〉
入会して、しばらくすると、鹿児島から、青年部の幹部が指導に来た。勤行の仕方や、折伏の大切さなど、諄々と語ってくれた。
「宿命を転換し、幸福になるためには、どげんすればよいか――。
日蓮大聖人は、『我もいたし人をも教化候へ』『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』(全1361・新1793)と仰せです。つまり、懸命に題目を唱え、折伏することです。自分だけの幸せを願う信仰は、本当の信仰じゃなかです。みんな一緒に幸せになってこそ、自分の幸せもある。
また、折伏に行っても、そげん、難しいことは言わんでもよかです。初めは、なぜ信心をしたか、仏法のどこに共感したかを、精いっぱい訴えて歩くんです」
自他共の幸せを実現していく――これまでの宗教では、聞いたこともない教えである。
トシは、奮起した。
“この信心で、幸せになろう!”
彼女は、真剣に唱題に励み、弘教を開始した。知り合いという知り合いに、仏法を語って歩いた。しかし、創価学会のことは、誰も知らないうえに、島の旧習は深く、素直に仏法の話に耳を傾ける人は少なかった。
「トシは、変な宗教に騙されて、おかしくなってしまった」
人びとは、こう噂し合った。
題目を唱え、折伏に励む――そこに、地涌の菩薩の生命が脈動し、歓喜があふれる。
富島トシは、学会活動をするなかで、“この信心で、必ず自分は、幸せになれるんだ!”という手応えを感じた。
子どもたちは、信心を始めた母親が、日ごとに明るく、元気になっていく姿に目を見張った。生活は、貧乏のどん底である。それなのに、本当に楽しそうなのだ。
彼女は、来る日も、来る日も、弘教に懸命に汗を流した。このころ、喜界島にも町営バスが通るようになったが、島の外周を走る線しかなく、本数も少なかった。二時間、三時間と歩いて折伏に出かけた。時には、下駄が割れてしまい、裸足で歩いて、帰って来たこともあった。
また、仏法の話をすると、相手が怒りだして、水をかけられたり、塩を撒かれたりすることもあった。鎌を持って追いかけられたこともある。でも、彼女は、めげなかった。どんなに反対され、なんと言われようが、ニコニコしながら、仏法を語って歩いた。
教学を学び、「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」(全916・新1235)の通りだと、実感したからだ。また、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(全1253・新1696)の御聖訓を確信していたからだ。
といっても、富島は、子どものころ、満足に学校に通えず、あまり読み書きができなかった。御聖訓も、島に来てくれる幹部の話を聞き、耳で覚えたものだ。さらに、学会活動に励むなかで、読み書きの必要性を痛感し、漢字を覚えていった。
広宣流布の使命に生きようという一念が、自分の苦手の壁を打ち破っていったのだ。
(第23巻「敢闘」の章、341~344ページ)
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