特別編 師弟不二の詩
 ああ恩師 戸田城聖先生(上)
2022年02月10日

わが師は
偉大なる知性の人であった。
慈愛深き人生であられた。
厳しかった。
優しかった。

その胸には常に
張り裂けんばかりに
邪悪に対する
闘争心が燃えていた。
正義の人であった。

私は
若き十九歳の時に
この偉大な師匠と
巡り会った。
その場所は
大田区であった。

一瞬にして私は
師子の胸に抱かれた。
わが身を捨てて
大法と正義に戦い抜く
この師のもとに座して
涙を流した。

高貴な信念が
常に燃え上がっている
人生であられた。
深い信仰の心に
燃え上がる慈悲を感じた。

来る日も来る日も
苦難の連続であった。
邪悪との戦いであった。
信念の道を歩む
闘争であった。
中傷 批判の波は
激しかった。

「創価」といえば
多くの人びとが
必ず悪口 中傷した。
いな 無認識のままに
一番大事な信念を持つ人を
嫌う風潮の日本の
心の小さい人びとは
みな横を向いて
笑って悪口を投げかけた。

そのなかを
わが師・戸田城聖は
ある時は笑顔で
ある時は厳しい口調で
そしてまた
ある時は朗らかに
大声で笑いながら
広宣流布の指揮を執った。
何も恐れなかった。

透徹した眼光の師であった。
いかなる噓も偽りも
決して見逃さなかった。
ひとたび
弾劾の師子吼が放たれるや
いかなる傲岸不遜な悪人も
恐れ戦き震え上がった。

春風の笑みの師であった。
悲哀と絶望に凍てつく
庶民の心を温かく とかした。
太陽のごとく
大らかに万人を包まれた。
勇気と希望の光を放って
無窮の生きる力を贈られた。

師弟不二
この絆にて
広布かな

逝去1カ月前の戸田先生㊨と若き日の池田先生(1958年3月1日)。この約2週間後、“広宣流布の記念式典”が開かれた

ともあれ師弟は
永遠にして不滅である。
師弟は
過去から現在へ
そして未来を貫く
生命の金剛の結合である。

法華経の化城喩品第七には
「在在の諸仏の土に
常に師と倶に生ず」と
峻厳に記されている。

我らは常に
いつの世も
いかなる時代も
師と共に生まれ
師と共に戦い
師と共に勝って
誉れの広宣流布の
大道を歩み抜くのだ。

「大難なくば
法華経の行者にはあらじ」との
如説修行の先師・
牧口常三郎先生に
戸田先生は仕えに仕え
尽くしに尽くされた。

法難の牢獄にまで
勇み お供なされた。
戦時中 正義のわが師は
二年間 牢獄に入れられた。
最極の正しき大善人を
国家は いじめ抜いたのだ。

初代の会長は獄死した。
わが師・戸田城聖は断固と
この敵討ちを決意した。
人間の王者は怒った。
自ら巌窟王になって
崇高な師をいじめた悪逆の敵と
断じて戦い抜いてみせると
宣言した。
これは有名な歴史である。

獄中にあって
「仏とは生命なり」
「われ地涌の菩薩なり」
と大悟され
焼け野原の東京で
妙法流布の大願に
ただ一人 立たれた。

死身弘法を決意せる師は
正義の旗持つ若人を求め
不惜身命の弟子の出現を
待ちに待っていた。

恩師あり
妙法ありて
わが一生

青年部の体育大会「世紀の祭典」に出席した戸田先生と、若き日の池田先生(1954年11月、東京・世田谷で)
昭和二十二年の八月十四日
今生の師弟の出会いあり。
この日この時
久遠の師弟の魂は
固く強く結ばれ
「不二の詩」を奏でながら
創価の新しき大車輪は
回転し始めたのだ。

わが誉れの青春譜の
幕は切って落とされた。
昭和三十三年の四月二日
恩師の御逝去のその日まで
十一星霜
三千八百八十五日にわたり
師事し常随給仕せり。

一年ごとに
弟子は増えてきた。
それと比例して
いわれなき迫害も
一段と高まってきた。

「真実の法華経の
如説修行の行者の
師弟檀那とならんには
三類の敵人 決定せり」
師弟の道は
嵐の道であった。

恐ろしきは人の心よ!
先生の事業は破綻し
莫大な借財が襲いかかった。
世間の非難の集中砲火に
先生の大恩を受けた
最高幹部を先頭に
手のひらを返すがごとく
忘恩にも裏切り去った。
嘲笑って立ち去った。

すべての弟子の心も
揺れ動いた。
多くの幹部たちまでが
卑劣にも去っていった。
私は悔し涙で
今に見ろ! と
彼らを軽蔑した。

一人の愛弟子は宣言した。
――私は
いかなる処罰を受けようとも
最善を尽くし抜いて
師をお守りして
この一生を終えるのだ。
一切の財産もいらない。
師の命ずるままに
私の生命を捧げる。

なんと意気地なき弟子たちよ!
なんと卑怯な弟子らよ!
なんと増上慢の愚者どもよ!
なんと卑劣極まる者たちよ!
彼らには
人間の真髄の振る舞いなど
まったくない。
邪となって臆病に狂い
動き回っていった。

弟子は叫んだ。
荘重に誓いを
天下に放つがごとく
師子吼した。

下劣な愚かな輩よ!
永劫に君たちを
諸天は絶対に助けない。
哀れな君たちよ!
気の毒なお前たちよ!
盗賊が断罪を
宣告されるよりも
もっと 恥と苦しみは
続行していくにちがいない。

真の信心なき彼らは
先生を師とは仰げなかった。
本有無作なる
先生の振る舞いを
軽んじて
広宣流布の師たる内証を
知ろうとはしなかった。

日興上人は仰せである。
「この法門は
師弟子をただして仏になる」

直弟子は激怒した。
いな ただ一人 覚悟したのだ。
命を賭して
師匠を厳護することを!
死して後世に
弟子の模範を示すことを!

私は胸を病んでいた。
喀血も続いていた。
阿修羅のごとく
一心不乱に戦い続けた。

私の心を見抜き
先生は言われた。
「大作!
お前は死のうとしている。
俺に命をくれようとしている。
それは困る。
断じて生き抜け!
俺の命と交換するんだ」

師匠は
弟子を心から愛した。
弟子は
師匠を心から尊敬した。
それは
荘厳なる師弟の劇であった。

戸田先生と池田先生が男子部の人材育成グループ「水滸会」の野外研修に出席(1955年6月、山梨で)
マハトマ・ガンジーは言った。
「弟子は
わが子以上である。
弟子たることは
第二の誕生である」

私には
弟子の誇りがあった。
誰が見ていなくともよい。
誰が知らなくともよい。
広宣流布の大師匠のもと
大仏法を真実に行じゆく
そして戦い抜く誇りを持って
突進した。

私には悔いがない。
師弟を師弟のままに貫き
戦い抜いてきたことを
絶対に後悔しない。
私は勝ったのだ!

ある日ある時
打開策に行き詰まり
土砂降りの雨の中を
師と共に二人して
歩みながら
私は申し上げた。

「必ず将来
先生にお乗りいただく
車も購入します。
学会もビルを建てます!」

先生は
黙って頷かれた。
その目に
涙が光っていた。

私はお誓いした。
「負債は
すべて私が返済します。
そして先生には
学会の会長として
広宣流布の指揮を
執っていただきます」

言葉に尽くせぬ
苦難の連続であった。
明日をも知れぬ
疾風怒濤の日々であった。

そのなかで師匠は
ただ一人の弟子を信じて
次々と
広宣流布の構想の翼を広げ
その実現を託した。
「学会も新聞を出そう!」
「大学をつくろう!
創価大学だ!」
師匠の絶対の信頼――
これに勝る光栄があろうか!

おお!
そして迎えた
あの第二代会長就任の
晴れわたる
昭和二十六年の五月三日!
師匠の栄光こそ
弟子の随喜であった。

先生は
断言なされた。
会員七十五万世帯の達成を!
それは
断じて勝ち取らねばならぬ
わが青春の誓願となった。

真の弟子への
師の期待はあまりにも大きい。
それゆえに
来る日も
また来る日も
獅子が わが子を
谷底に突き落とすがごとき
厳愛の訓練が続いた。