SGIの誇り 23年01且26日


優美で華やかで気品があって――真っ赤な牡丹(ぼたん)が堂々と。“王者の風格を持て”と励ますように(池田先生撮影。今月、都内で)

平和世界へ 人類の英知の底力を!
わが師・戸田城聖先生は、草創の仙台支部をはじめ、東北の同志を全国の模範と深く信頼し、その前進に心を尽くされていた。
一九五五年(昭和三十年)の厳冬の二月には、東北放送の“ラジオ対談”に出演。創価学会の歴史を尋ねられると、「われわれ学会は、昭和三年(一九二八年)に起こっているんですね」と、にこやかに応じられた。牧口常三郎先生と戸田先生が入信された年である。
収録後、先生は、一人立ち会っていた私に微笑みながら、「大作は昭和三年の生まれだったね。不思議な縁だな」と言われた。
両先生に始まる大闘争に私も連なり、そして同志と共に「広宣流布」即「立正安国」の大道を民衆の力で開いてきた九十五星霜――。師が東北で宣言した「創価の人材の城」は、世界へ壮大な広がりとなった。

グアムから出発
この二十一日、SGI(創価学会インタナショナル)の源流の天地グアムには、喜びと決意に満ちて、平和文化会館がオープンした。
懐かしき白亜の国際貿易センタービルの隣である。一九七五年の一月二十六日、「世界平和会議」を行い、SGIが発足した舞台だ。
あの日あの時、五十一カ国・地域から駆けつけた誉れの先駆者たちを、私と一緒に迎え、陰で支えてくれたグアム、そしてアメリカの忘れ得ぬ同志の顔が一人ひとり、鮮やかに蘇る。
当時、仏法の平和と人道の哲理を、いよいよ“地球民族”へ展開するに当たり、私は心に期していた。
――これまで以上に、最も小さな単位である、一対一の「人間」と「人間」の交流を大切にするのだ。最も身近な使命の国土である足元の「地域」から、友情と貢献の輪を広げよう、と。
真冬の全米を横断する長旅で、私は喉を痛めていたが、各国の代表や、地元の方々にも、妻と心を込めて激励させていただいた。
会議で決然と開会宣言をしてくれた壮年には――

天高く
海青き国
常光乃
広布に指揮とる
君に幸あれ

裏方の役員を凜々しく務めてくれた女子部には――

美しき
心と花の
乙女らに
われは贈らむ
幸のレイをば

――と詠み認めた。
かつて戦火に苦しみ抜いたグアムを起点と選び、私たちは、目の前の一人の心に励ましの縁を結び、一人の命に、「妙法という平和の種」を蒔いていった。
今回の記念行事に象徴されるごとく、愛するグアム・サイパン等にも、若き地涌の人華が舞い、福徳と信頼の花園が咲き広がる姿は、何より嬉しい実証である。
顧みれば、日蓮大聖人が、「仏法西還」「一閻浮提広宣流布」という“未来記”を記された地は、流罪された佐渡島であった。世の人びとが蒙古襲来や内乱、飢饉や疫病などに怯え、御自身も「万が一も脱れ難き身命なり」(顕仏未来記、新611・全509)という中で、全民衆の救済へ、荒海の離島から、世界を照らす「太陽の仏法」の大光を赫々と放たれたのである。
この方軌を踏まえ、私たちは、沖縄、ハワイ、香港等の島々から、広布と平和の航路を開いてきた。
わがグアム家族、そして健気なる「勝利島」の全宝友の安穏繁栄と栄光凱歌を、私は日々祈っている。

2000年1月、グアム大学から名誉博士号が池田先生に授与された。SGI発足25周年の佳節に“発祥の地”の最高学府から、世界平和と教育の発展を目指した行動へ熱いエールが(八王子市の東京牧口記念会館で)

創価学会の使命
SGIが誕生した一九七五年は、広島・長崎への原爆投下、また第二次世界大戦の終結から三十年の節であった。厳しい東西冷戦下、世界は力と利害の論理に翻弄され、分断と対立を深めていた渦中である。
人類の危機の克服のため、仏法の智慧をいよいよ発揮して、平和・文化・教育の新たな価値創造を、と飛翔したのだ。
大聖人は、信仰の有無にかかわらず、現実に「民のなげ(歎)き」を止め、「民をたす(助)けし」智慧は、仏法の智慧に通ずると示され、「智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心え(得)て候を、智者とは申すなり」(新1968・全1466)と仰せである。
それは、「妙法流布」という宗教的使命と同時に、「世界平和」という人間的使命、社会的使命を担い立つ挑戦である。そのためにSGIは、民衆の自立した組織として、仏法の中道主義、人間主義を基調に、国家や体制、イデオロギー、宗教の壁も超え、世界市民の連帯の橋を幾重にも架けていくのである。
グアムの後、私が中国へ、欧州へ、ソ連へ、アメリカへと懸命に動き、指導者や識者との対話を続けたのも、時を逃さず、平和の種を蒔きたかったからだ。
この年、一つの集大成となったのが、十一月の広島訪問である。原爆慰霊碑に献花するとともに、本部総会で核廃絶への不退の前進を誓い合ったのである。
その際、私は核保有国が「核兵器の先制不使用」を宣言すること、核廃絶への国際平和会議を広島で開催すること等を提唱した。
今年の年初、発表した「緊急提言」で、ウクライナ危機の早期終結とともに、喫緊の課題とした一つも、「核兵器の先制不使用」の確立である。
実は、発表の日(一月十一日)は、七十八年前、徴兵され戦地にて二十九歳で死去した長兄の祥月命日とも重なった。生前、戦争は美談などではないと語っていた敬愛する長兄である。
戦争ほど残酷で悲惨なものはない。青年や子どもを魔性の犠牲にし、母たちを慟哭させてはならない。私たちは命の限り、そう叫ばずにはいられないのだ。

被爆の母の誓い
広島で原爆の被害を受けた関西在住のご婦人から、その半生を伺ったことが、痛切に思い起こされる。
――十六歳の時、被爆。奇跡的に無傷で助かったが、“黒い雨”に濡れたトマトを母と二人で食べ、やがて激しい痛みと苦しみに襲われた。原爆から二年後、母は亡くなった……。
一言一言、絞り出される言葉に、私は耳を傾けた。
戦後長らく、辛い体験を語ることは出来なかったという。しかし、戸田先生の生命を賭した「原水爆禁止宣言」を知り、自分も証言していこうと決めた。
そして、自分と同じような思いを、二度と、未来に生きる人びとに味わわせてはならない。「原爆は人間の死に方ができんわけです。悪魔の兵器です」と語り続けてこられたのだ。
学会の平和運動は、一人ひとりの人生に根差した、生命尊厳の信念からの祈りと行動に支えられている。
「ベトナム戦争の即時停戦」「沖縄の即時返還」そして「日中国交正常化」などの折々の私の提言も、牧口・戸田両先生と「師弟不二」にして、全同志と「異体同心」の師子吼にほかならない。

来る年も、また来る年も、民衆の平和と勝利へ、同志と共に、青年と共にと(2005年1月、八王子市の東京牧口記念会館で)

未来を開く提言
1・26「SGIの日」に合わせ、私が平和提言の発表を開始したのは、一九八三年のことである。
当時、米ソ両大国は核開発競争に狂奔し、「平和か緊張激化かの重大な分岐点」と不安が高まっていた。この危機に応戦する覚悟で、「平和と軍縮への新たな提言」を発表したのだ。
その際、「絶望や諦めからは未来への展望は開けない」と記し、一石を投じる思いで「米ソ首脳会談」の早期実現を提案した。二年後(八五年)に、ゴルバチョフ氏がソ連書記長に就任し、レーガン米大統領との首脳会談が実現した。直接の対話を契機に事態が動き始め、米ソの中距離核戦力(INF)全廃条約の締結などへつながっていったのは感慨深い。
「対話」は、「しばしば談話を致さん」(新25・全17)という「立正安国論」を体し、創価三代の師弟が一貫して訴え、実践し抜いてきた道である。
同じ「人間」、なかんずく生老病死の苦悩を共に見つめ、「生命」という次元に立って語り合えば、分かり合えぬことは絶対にない。
思えば、私が沖縄研修道場を訪れ、そこに残されたままだった米軍の中距離弾道ミサイル「メースB」の発射台をあえて撤去せず、「平和の発信基地に」と提案したのも、八三年の提言発表の二カ月後であった。
先日、研修道場を訪問された米デューイ協会のガリソン元会長も「まさに仏法の『変毒為薬』の証しですね」と感嘆し、「創価学会は泥の中から蓮の花が咲くように、暗闇の時代を希望の光で灯しています」と讃えてくださった。

対話で種をまく
私が世界に発信し続けた提言は、「1・26」に寄せたものだけでも四十回を重ねた。「持続可能な開発のための教育の十年」「世界市民憲章」「子ども兵士の禁止」「貧困撲滅のための世界連帯基金」等、幾多の提案の中には、国連などでさまざまな形で具体化したものも少なくない。
ことに恩師の悲願の実現への大きなステップとなるのが「核兵器禁止条約」である。世界の宝友が、私と同じ心で、平和の精神の波を地域へ社会へ広げてくださっていることは、感謝に堪えない。
ともあれ、人類はいかなる困難に直面したとしても、苦難を乗り越える力を具えている。トインビー博士が「挑戦と応戦」の歴史観で示された通り、価値創造の智慧は無窮である。
不屈、勇気、友愛、団結、英知、忍耐等々、民衆の底力を信頼し、呼びかけ、引き出し、結集していくのが、「立正安国」の対話だ。
御聖訓に、「しかれども、いまだこ(懲)りず候。法華経は種のごとく、仏はうえて(植手)のごとく、衆生は田のごとくなり」(新1435・全1056)と仰せである。
我らが勇敢に、誠実に、辛抱強く祈り語った声が、希望の種となる。種は無限に花を咲かせ、実を広げ、平和世界の沃野となろう。
澎湃と続くSGIの地涌の同志と共に、自ら誓い願った大地で、今日も明日も、「いまだこりず」と、誇り高く、妙法の平和の種を蒔いていこうではないか!