
風薫る5月――。生き生きとした青葉、若葉の輝きは、生命の輝きそのもの。光きらめく一葉一葉は朗らかな語らいのよう(池田先生撮影、今月、都内で)
「時」とは、宇宙の大生命が刻む、妙なるリズムそのものであろう。
ゆえに、妙法を唱え弘めゆく人生は、「時」に適い、「時」を味方にして、必ずや幸福そして勝利の春夏秋冬を飾れるのだ。
御本仏・日蓮大聖人は、決然と宣言された。
「今、日蓮が時に感じて、この法門広宣流布するなり」(新1388・全1023)
この師子吼に呼応して、戸田城聖先生の指揮のもと「今こそ大法弘通の時」と定め、大行進を開始したのは七十年前、まさしく立宗七百年にあたる一九五二年(昭和二十七年)であった。
師恩に報いる誓願で、不二の弟子が「慈折広布」へ突破口を開いた東京・蒲田支部の「二月闘争」は、この年であり、わが関西もまた、時を同じくして出陣した。
立宗の月・四月には、創価学会版の御書全集が発刊された。「御書根本」という永遠の軌道の確立である。
“大楠公”の誓い
恩師の甚深のご配慮で、その翌五月の三日に、私と妻は簡素な結婚式を行い、出発をさせていただいた。
先生は一言、「これからの長い人生を、広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたい」と語られ、祝宴の歌に“大楠公”を所望された。
「青葉茂れる桜井の」と謳われた、父・楠木正成と子・正行の誓いの劇は、旧暦の五月のこととされる。
「父は兵庫に赴かん」との覚悟の旅に、子は「御供仕えん」と訴えた。
しかし厳父は“早く生い立て”“民守れ”と後事を託して、故郷の母のもとへ帰すのである。
思えば、戸田先生ご自身が十九歳で牧口常三郎先生に師事して以来、この歌に脈打つ“正行の心”で仕え抜いてこられた。そして、法難の獄中に殉教された師父の仇を討つ正義と人道の巌窟王となり、戦後の荒野で、妙法流布の大願へ一人立たれたのだ。
戸田先生の事業が最悪の苦境にあった折、先生は正成のごとく、私は正行のごとく、師子奮迅の力で一切を超克し、第二代会長就任の五月三日を飾った。
その私の志を全て知悉された先生は、新たな門出に一年後の五月三日を選んでくださり、“大楠公”の合唱を求められたのである。
尽きせぬ報恩感謝の一念で、広宣流布の大誓願へ「父子同道」の旅を貫き、同志を広げ、後継を育てて、七十星霜となる。

はるかな幾山河を乗り越え、どこまでも広宣流布の大願へ師弟の旅を共々に(2002年5月、東京・信濃町の旧・聖教新聞本社で)
民衆第一に進め
立宗七百年から十年後の一九六二年(昭和三十七年)を、わが学会は「勝利の年」と銘打った。
この年の一月、私は事実無根の選挙違反容疑で逮捕された大阪事件の裁判で、無罪判決を勝ち取った。民衆勢力として台頭する学会を陥れんとする権力の謀略と戦い、公判八十四回に及ぶ法廷闘争を通し、正義を満天下に示したのである。
迎えた五月三日、私は色紙に認めた。
「大阪事件 初公判 昭和三十二年十月十八日なり
最終陳述 昭和三十六年十二月十六日なり
判決 無罪 昭和三十七年一月二十五日なり」
そして、最後に記した。
「多くの尊き友が尽力下されし真心に 心より感謝の意を表しつつ……その名、永久に忘れず」と。
関西の母たちをはじめ、多くの同志が私の勝利を信じ、ひたぶるに題目を送り続けてくれた。同心の一人ひとりの姿が、私と妻の命から離れることはない。
判決の前夜に兵庫・尼崎の天地で、青年と語った。
――牧口先生、戸田先生の遺志を継ぐ私には、自分の命を惜しむ心などない。
不幸な人の味方となり、どこまでも民衆の幸福を第一に、さらに堂々と前進を開始しようではないか、と。
以来、大関西をはじめ、各地の地涌の勇者が、まぎれもなく“正行の心”を受け継いで、師弟の共戦譜を勝ち綴ってくれていることが、何よりの誉れである。
断じて不戦を!
一九六二年は、東西の分断が日に日に深まる時代であった。前年に「ベルリンの壁」が築かれ、十月には「キューバ危機」が起こっている。世界は核兵器の脅威に怯え、日本では、不安の中、核戦争、第三次世界大戦が起きるかどうかを予想・論評するマスコミも少なくなかった。
しかし、そうした議論は、私が選ぶところではない。核兵器の本質を“絶対悪”と喝破された恩師のお心を継いだ弟子の決意は、微動だにしなかった。
“第三次世界大戦は断じて起こさせない”――当時、我らはこの決心で強盛に祈り、世界平和の道を開こうと誓い合ったのである。
勝利へ東奔西走
この年早々、私は厳寒の北海道へ向かった。中東を歴訪した後、日本列島を、中国、四国へ、さらに東北、関東、九州、東海道、中部、関西、信越、そして沖縄へと東奔西走した。訪問できなかった恩師の生誕の天地・北陸の宝友とも、常に連携を取り合っていた。同志の全世帯に一声ずつの題目でも送りたいと願い、日々、勇猛の唱題行を重ねながらの旅路である。
私は声を限りに訴えた。
東京では「広宣流布という大目的に立って、仏道修行に励んでいこう」。
埼玉では「“広宣流布は絶対にできる”との大確信を持って前進を」。
福岡では「強い団結で、世界中の人が“さすがだ”と驚く先駆の実証を」。
神奈川では「私たちが“日本の柱”となって、本当に住みよい、幸せな国をつくろう」。
愛知では「誰が何と言おうが絶対に勝ち抜いて、平和と安泰のために進もう」。
兵庫や大阪の闘士が結集した関西での集いでは「皆が安心して暮らせる社会をつくるために戦おう」。
また、この動きに合わせ、可能な限り、各地で御書講義を行い、質問会も設けて、求道の友と研鑽し合った。
ある時は「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」(新1481・全1088)との御文を拝し、どこまでも「御本尊根本」「御書根本」に進もうと確認した。
ある時は「かかるとうと(尊)き法華経と釈尊にておわせども、凡夫はし(知)ることなし」(新1723・全1446)を拝読し、いまだに偉大な仏法を知らずにいる多くの人びとに、他の誰でもない、この私たちこそが語り切るのだと自覚を深め合った。
地区担当員(現・地区女性部長)の方から、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(新1097・全788)との一節を、生活に当てはめると、どう拝すればいいかと、真剣な質問を受けたこともある。
私は申し上げた。
“どんな悩みがあっても、「苦楽ともに思い合わせて」題目を唱えていけば、歓喜の生命が必ず涌現します。
自分が歓喜して、その喜びに溢れた姿を見た人までが、同じ喜びに燃え立っていく。自分だけでなく、友をも同じ歓喜の境涯と生活にあらしめる。これこそ、「歓喜の中の大歓喜」ではないでしょうか”と。
私と同じ心で、全国各地の友が、いずこでも生き生きと躍動し立ち上がってくれた。学会は、この年、恩師から遺言として託された「三百万世帯」という目標を達成し、新しき創価勝利の歴史を開いたのだ。
勢いあれば栄う
それから、さらに十年。「地域の年」と掲げた一九七二年(昭和四十七年)の一月、私は愛する沖縄へ飛んだ。復帰の年に、真実の「幸福島」の建設へ、皆で決意を新たにしたのである。
「依正不二」の原理の上から、「仏法を持った学会員が元気で勢いがあれば、必ず社会は栄え、絶対に平和になる」とも語り合った。
この半世紀、尊貴なる宝友たちは「柔和忍辱の心」を体し、あらゆる試練を越え、「命をかけて ひと筋に」、仏法中道の智慧の光で広布の理想郷を開いてきた。
「御志、大地よりもあつ(厚)く、虚空よりもひろ(広)し」(新1882・全1551)
「日蓮が道をたす(助)けんと、上行菩薩、貴辺の御身に入りか(替)わらせ給えるか。また教主釈尊の御計らいか」(新1583・全1163)等の仰せは、そのまま、わが沖縄家族への御照覧・御賞讃なりと、私には拝されてならない。
「時」は今! 対話の旋風で 希望の大道を
「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー(地球規模で考え、地域で行動する)」
これは、著名な医学・細菌学者のルネ・デュボス博士が提唱した標語である。
この精神が、今ほど求められている時はあるまい。
たとえ、道がいかに遠く険しくとも、一人ひとりが今いる場所で信念の行動を起こすことが、地球全体を変えゆく希望となるのだ。
デュボス博士は、トインビー博士にご紹介いただき、お会いした一人である。
「世界に対話の旋風を! 永遠の平和の道をつくるために」とは、いうなれば、五月に対談を重ねたトインビー博士と私の“青葉の誓い”であった。
一つ一つの縁を大切に、一人ひとりと信頼を育むことが、「時」を創ることだ。
わが同志は今、不軽菩薩のごとく、あの地この地で、勇んで友のもとへ足を運び、友情を広げている。大誠実の対話で結ばれた絆こそ、新しい「変革」をもたらす力になると確信する。
デュボス博士は、“危機”の意義をこう語られた。
「危機こそ、ほとんど例外なしに豊かさへの源泉である。危機は新しい打開の道を追求させるからである」
大変な時に勇敢に立ち上がるから、宿命転換できる。変毒為薬できる。
これが、創価の師弟に漲る「師子王の心」である。
御本仏の御聖誕満八百年。そして、立宗七百七十年の今この時、我らは胸を張り、「立正安国」という大いなる希望に向かって進もう! 威風堂々と対話の旋風を巻き起こし、民衆の幸と凱歌の旗を、未来へ、はためかせようではないか!
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