
緑に包まれた坂道に、目の覚めるようなカンヒザクラ(寒緋桜)が咲き誇る。その緋色(赤)の花は、“春だ、生命を燃やせ!”と語り掛けているよう(2000年2月、池田先生撮影。沖縄・恩納村の沖縄研修道場で)
この冬は、例年にも増して寒さが厳しく、雪が多い。
日蓮大聖人は、御自身が「八寒を現身に感ず」(新1282・全955)という厳冬を幾たびも耐え忍ばれつつ、皆の労苦を思いやられていた。
とりわけ雪深い年にも、求道の信心で真心を尽くす門下を讃えておられる。
「し(知)らず、釈迦仏の御使いか、過去の父母の御使いかと、申すばかりなく候」(新1247・全925)――そのまま北国・雪国で歯を食いしばって、広宣流布に挑む尊き創価家族への御照覧と深く拝される。
聖教新聞を配達してくださっている「無冠の友」、また常に天候との戦いが続く農漁光部の方々をはじめ、わが宝友の健康と絶対無事故、福徳安穏を強盛に祈らずにはいられない。
さらに、いまだ打ち続くコロナ禍の中、医療従事者をはじめ、大切な人命を守るために日夜奮闘しておられる方々に、心からの感謝を捧げたい。
約二年に及ぶ、この感染症のパンデミック(世界的大流行)により、日本と世界で亡くなられた全ての方々のご冥福を日々、祈念申し上げている。そして一日も早い収束と、危機の時代を皆の力で超克しゆくことを誓い合ってまいりたい。
一緒に越えよう
一九五〇年(昭和二十五年)の初冬、みぞれの降る夕べであったと記憶する。
事業の苦境の打開に師弟して奔走する中、戸田先生が笑いながら言われた。
「世の中は、まったく寒いなぁ」
師も弟子も体調を崩しながらの悪戦苦闘であった。
私は着替えのシャツや靴下にも不自由し、オーバーなしで寒風に飛び出していく日々であった。
先生は、「でも大作、俺もおまえも冬の生まれだからな。一緒に乗り越えようや。頼むよ」と、心に熱い火を点してくださったのである。
この艱難の風雪を師子奮迅で戦い抜き、遂に翌年、師の第二代会長就任の晴れわたる五月三日を迎えた。
人知れず私たち師弟が身読した御聖訓を、あらためて、仕事や生活、闘病、介護、子育てなどで辛労を尽くしている友に贈りたい。
「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」(新1696・全1253)と。
自分だけでなく
今月は、大聖人の御聖誕満八百年である。忍難弘通の御生涯が胸に迫る。
「日蓮、生まれし時よりいまに一日片時もこころ(心)やす(安)きことはなし。この法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(新1892・全1558)
これは、若き南条時光へ吐露された御真情である。 この御書では、時光へ、こうも語り掛けておられる。
「殿一人にかぎ(限)るべからず、信心をすすめ給いて、過去の父母等をすく(救)わせ給え」(新1891・全1557)
今、わが後継の宝・青年部も、新生・女性部の華陽姉妹も、「青年・飛躍の年」の年頭から見事な拡大のドラマをつづっている。
御本仏は、世界へ開けゆく慈折広布に新たな光を投ずる、地涌の若人の勇舞をいかにお喜びであろうか。
皆で二月闘争へ
氷壁を破ろう! 熱き心で 弾む生命で
「伝統の二月」を貫く学会精神――それは、一言にしていえば「氷壁を破る」戦いだ。苦しみ悩む友に、「冬は必ず春」と、希望の灯を点じゆく開拓である。
七十年前(一九五二年)の「二月闘争」の出陣に際し、私が深く祈り願ったのは、蒲田支部の同志が、一人も残らず人間革命の体験と確信をつかむことであった。その歓喜の実証こそが、恩師の誓願された七十五万世帯の折伏という聖業に連なっていくからである。
組二世帯という折伏の目標に、「できるわけがない」との声もあがった。私は、「やらないうちに、できないということはありません。まずは、やってみませんか」と呼び掛けた。
どうすれば、皆が勇んで対話に打って出ていけるか――戸田先生は明快に、「認識」「評価」「実践」という三段階を踏むことが大事であると語られていた。
すなわち、誰かがやるだろうと人ごととするのではなく、一人ひとりが仏法対話を自分の挑戦と認識し、“この戦いが自身の宿命転換になる”と評価すれば、思い切って実践できる、と。
ゆえに、青年の私自身が先陣を切って、アパートの隣人など身近に縁した方々に語りに語った。対話の場があると聞けば、同志と足取りも軽く駆け巡った。
勇気を出して語っても、思いが通じず、落胆する友もいた。すると皆で「よく頑張りましたね」「全部、福徳になるからね」等とねぎらい、讃え合った。
「一人のために」語ること自体に大功徳がある。「仏の種」が蒔かれる。「冥の照覧」は絶対に間違いない。
だからこそ、どの座談会場でも、どんな人との語らいでも、一人ひとりが前を向いて明るく進めるよう、温かな励ましに徹した。
「あの友にも」「この人にも」と声を掛け合う中で、皆が異口同音に「いつの間にか目標を達成していた」と述懐する力が出たのだ。
そして蒲田支部の勢いは日に日に高まり、その波動は全国へ広がった。とともに、妙法に巡り合った友の蘇生と福運の物語が、幾重にも織り成されていった。この時、入会したご一家から、後にアメリカ広布のリーダーが羽ばたいたことも、誉れの歴史である。
義経の声を今に
関西の行進も、二月闘争の息吹から始まった。
それは、やがて「立正安国」の黎明を告げる民衆の大連帯へ発展を遂げる。
私と関西同志の忘れ得ぬ宝の一書がある。
二月闘争から五年を経た一九五七年(昭和三十二年)の七月三日、「大阪事件」の渦中に、戸田先生から賜った妙悟空著『人間革命』である。
当時、夕張炭労による学会員への人権侵害事件の解決のために、北海道で戦い、勝利した後、私は空路、大阪へ向かわねばならなかった。大阪府警に出頭するためである。
乗り換えの羽田空港で、戸田先生は、厳父のごとく「征って来なさい!」と言われた。そして別れ際に、ご自身の「出獄」の日を記念して、この日、発刊されたばかりの一冊を手渡してくださったのだ。
大阪への機中、この書を拝し、勇気百倍、不二の闘志を燃え上がらせて、私は無実の容疑による「入獄」という試練に踏み出していったのである。
後日、私は、この書の扉に「戸田城聖先生ヨリ 給ハリシモノ也」「昭和三十二年七月三日ニ」と記し、裏表紙の見返しに一詩を書き留めた。江戸時代後期の漢詩人・梁川星巌が、関西を舞台とした源義経を詠んだ七言絶句である。
「雪は笠檐に灑ぎ
風は袂を捲く
呱々 乳を索むるは
若為なる情ぞ
他年 鉄拐峯頭の嶮
三軍を叱咤するは
是れ此の声」
――幼子三人を連れ、平家の追っ手を逃れて雪中を歩む常盤御前。雪は編み笠のひさしに降り積もり、風は着物のたもとを巻き上げる。赤子の牛若丸(源義経)は、どんな思いなのか、母の乳を求め、泣き叫んでいる。
後年、義経は平家追討の大将軍となって一ノ谷の合戦に臨み、険しい鉄拐山の上から鵯越を駆け下って敵を打ち破った。全軍を叱咤した、この大号令の声こそ、雪中、母の懐で泣いていた牛若丸の声なのだ――と。
この詩に託し、私は壮大な逆転劇を心に期した。
横暴な権力の魔性に、善良な庶民がどれほど苦しみ泣かされてきたことか。
だが、今に見よ! 父母の涙を知る正義の青年群が力をつけ、いかなる大難にも屈せぬ、師子王の陣列を必ず築いてみせる。そして、断じて民衆の凱歌を轟かせてみせるのだ、と。
この私の決心を、関西の友は我が心とし、「負けたらあかん!」と常勝の錦州城を築き上げてくれたのだ。

日蓮大聖人御聖誕、そして戸田先生誕生の意義深き2月。「仏法西還」の誓願を胸にインドを訪問。愛する友の幸福を祈り励ます(1992年2月、インドのニューデリーで)
飛躍は祈りから
「伝統の二月」を、全世界の同志が“私自身、そして私たちの対話で飾ろう”と励んでくれている。
インドでは、毎年二月を「カマタ(蒲田)キャンペーン」と掲げ、広布の前進がいやまして加速する。
三十年前(一九九二年)の二月十一日――戸田先生生誕の日に、首都ニューデリーで、私はマハトマ・ガンジーが展開した非暴力の民衆運動を巡って記念講演を行った。
第二次世界大戦中、ガンジーが最後の獄中闘争に臨んでいた、まさに同じ頃、恩師も日本の軍国主義に抗して獄中にあったのである。
ガンジーは訴えた。
“祈りとは、自分自身との戦いであり、逆境や絶望を克服しゆく勇気の挑戦であるのだ”と。
今、私たちの広布誓願の祈りは、仏教源流の天地・インドをはじめ、全世界を包む時代となった。
コロナ禍でも、創価家族の心は、自在に通い合う。
先日の本部幹部会では、兵庫女性部の「ひまわり合唱団」の皆さんが、ブラジルSGIの愛唱歌をはつらつと歌い上げてくれた。兵庫・関西と縁の深いブラジルの友も喜ばれている。
兵庫の未来部と青年部の代表も“大楠公”を凜々しく大合唱し、感動を呼んだ。
恩師のもとで熱唱した正義の魂を、従藍而青の若人が歌い継いでくれていることは、何と頼もしいことか。
牧口先生と戸田先生が、共に線を引かれ、大切にされていた御聖訓に、「よき師と、よき檀那と、よき法と、この三つ寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うべきものなり」(新695・全550)と仰せである。
この「師弟不二」にして「異体同心」という最極の絆で結ばれた我らは、広布と人生の祈りを一つ一つ成就し、断固、社会と世界の大難を変毒為薬していくのだ。地上から“悲惨”の二字をなくしたいと願われた恩師の心を継いで、立正安世界を祈り開いていくのだ!
創価の若き世界市民には、人類の良識から、深い信頼と期待が託されている。
熱き心の連帯と弾む生命で、分厚い氷壁をも破り、地球民族の平和と尊厳の春へ、不屈の人華を咲かせ、いよいよの飛躍を頼む!
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