広布史アルバム⑩ 人間勝利の凱歌をあげよ 2020年10月18日 |
「一度、決めたことをやめられるか! 男子として、死んでも行く。これが、大作、真実の信心ではないか!」 〈1957年(昭和32年)11月19日、病床にあった恩師・戸田先生は、池田先生に命懸けで広島に向かうことを訴えた。池田先生は随筆に、恩師の思いを記している〉 (戸田)先生の被爆地・広島への思いは、いかばかりであったろうか。核兵器という「サタン(悪魔)の爪」に破壊された広島へ、命と引きかえで出発する覚悟だったのである。 だが、この翌日には、先生の病状は、歩行もできぬほどに悪化し、ついに広島指導は断念せざるをえなかった。 恩師は五十七歳。ご逝去の半年前のことであった。 生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった。 〈85年(同60年)10月20日、57歳の池田先生は、広島で開催された第6回「世界青年平和文化祭」に出席。この年、先生は国連事務総長と会見するなど、数々の平和行動をもって広島を訪問した。文化祭を振り返り、先生は広島への万感の思いをつづっている〉 「永遠の平和 広島」! 感動のフィナーレで浮かび上がった、白い大きな文字が、今でも鮮やかに脳裏に蘇る。大歓喜の渦の中に、アメリカやアジアなど、世界の五大州の友がいた。広島の青年が輝く瞳で乱舞していた。 そこには、歴史を永遠の平和へ回転させゆく、若人の熱と力が燃えていた。 文化祭の翌日、私は、再び原爆慰霊碑に向かい、追善した。この日、世界四十六カ国・地域のSGIの同志も、慰霊碑に献花した。 私は心強かった。偉大な使命感に燃えた、民衆の「平和の連帯」の世界的拡大こそ、悪魔の兵器の暴走を止める最強の力だからである。 正義の団結、善の連帯こそ、分断と破壊の魔を打ち破る勝利の要諦である。 永遠平和の原点・広島よ! 世界の希望・広島よ! 強き団結の力で勝て! 雄々しき正義の声で勝て! 不屈の精神の戦いで勝て! 広島には、人間勝利の凱歌をあげる大使命があるのだ! ![]() 第6回「世界青年平和文化祭」のフィナーレで、池田先生が両手を高く上げて、出演者に応える(1985年10月20日、広島県立体育館<当時>で) 被爆40年という節目に、世界中の青年たちが歌や踊りを通し、広島の地で、恒久平和を訴える姿に、各界の来賓たちは称賛を惜しまなかった。この日は、「広島の日」「広島青年部の日」に。明後20日、35周年の佳節を迎える ![]() 原爆の投下目標にされたといわれる相生橋(あいおいばし)を歩く池田先生。奥には原爆ドームが立つ(同年10月21日、広島市内で) 「『平和への闘争』なくして、広島を訪ねることはできない」「『戦争の二十世紀』の犠牲となった広島を、『平和の二十一世紀』の聖地へ!」との信条の通り、先生は愛する広島の同志と共に、世界平和と核兵器廃絶の大理想の実現へ、闘争に次ぐ闘争を重ねた |