広布史アルバム⑤ 一人を味方に 友の幸福に尽くせ 2020年06月20日 |
あの友、この友の幸福を祈り、心を通わせる。胸襟を開いて、耳を傾け、日々の挑戦をたたえ合う。ここにこそ、創価学会の真実がある。 1979年(昭和54年)4月24日、池田先生は第3代会長を辞任。“会合で指導してはならない”など、宗門僧らによる師弟分断の謀略の嵐が吹き荒れる中、先生は功労者への訪問・激励を開始する。 「御聖訓通りの、ありとあらゆる中傷非難、そして迫害のなか、わが同志は、決して広宣流布の旗を下ろさなかった。この方々を護らずして、誰を護るのか! この方々を讃えずして、誰を讃えるのか! 本当ならば、尊い仏子である全学会員のお宅を、私は一軒一軒、訪問したかった」 先生は、一人、また一人と励ましを重ね、その数は600軒を超えた。 私の功労者宅への訪問は続いた。 その家の後継者や、小さいお孫さんとも親しく語り合った。一家一族を永遠に幸福の軌道に乗せることが、私の願いであり、祈りであったからだ。 母親の信心が立派な家庭は、どこも後継者がしっかりと育ち、栄えていた。全国を転戦しながら、移動の途中に、会員の家や店があれば、寄らせていただいた。 山口県では、離島にも足を運んだ。 兵庫県の中堅幹部のお宅では、関西の幹部に「3・16」の意義を後世に留める話をした。 大分空港に降り、坊主たちの苛めと戦い、苦しんできた方がいると知って、直ちにその場に向かったこともある。 二百軒目は、文京支部で共に戦った草創の支部長のお宅であった。 三百軒目は、神奈川の功労者で、ご一家のお母さんが病に伏したことを知り、お見舞いに伺った。 五百軒目は、坊主の迫害に耐え抜いた愛媛の勇者の家であった。一九八五年(昭和六十年)の寒い二月のことである。 一軒また一軒と数が増えるにつれ、自分の家族も増えるような思いであった。 苦労して個人指導、家庭指導に歩けば、その分だけ、人間としての厚みがまし、豊かな境涯になれるものだ。 きめ細かい生活指導こそ、不屈の信心の確立につながることを痛感する一日一日であった。会長辞任の直後、地道な家庭訪問から闘争を開始し、今や学会の民衆のスクラムは、世界をも結ぶまでになった。 一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。 一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。 一対一の対話――これこそ最も確かで崩れぬ、平和と幸福の人間の連帯を築く方途であるからだ。ここに、学会が永遠に栄え伸びゆく生命線があることを決して忘れてはならない。 ![]() 「久しぶりだね。会いたかったよ」――横浜市南区の会員宅を訪問(1979年6月22日)。そこに数人の同志が駆け付けた。池田先生は「皆さんは、学会の宝です」と語り、広布への献身を最大限にたたえた。家主の夫妻は、草創の文京支部に所属し、拡大に奔走。後日、先生は夫妻に「王桜」との揮毫をしたため、重ねて励ましを送った ![]() 池田先生が東京・小金井の同志宅へ。草創期に入会し、病を抱えながら広布の使命に駆けた一家を、戸田先生は温かく励まし、池田先生にも「まっすぐな人だから、ずっと大事にしてあげてほしい」と。恩師の思いを継ぎ、池田先生は会長就任前から何度も足を運んできた。長年にわたる広布の会場の提供にも、先生は深い感謝を伝えている(1979年6月28日) ![]() 横浜市の日吉にある友の家を訪れ、家族と一緒に勤行。記念のカメラに納まり、長女が創価女子高校(現・関西創価高校)で学んでいることを聞くと、池田先生はその日の夜、同校に電話を入れ、彼女を激励した。懇談の最後、友は「大好きな創価学会を私の立場で守り抜いてまいります」と誓った。先生は「彼の最後の一言は、今も鮮明に私の心に刻まれている」と後につづった(1979年6月9日) |