Ⅲ部 第7回 2020年10月08日 師弟で開いた「青年育成」の大道② |
![]() 〈出席者〉志賀青年部長、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 戸田先生の指針「青年よ、一人立て!」 広布の新時代開く先駆者に ◆志賀 創立90周年の「11・18」へ、青年部は今、勇んで対話に挑戦しています。創立の月・11月は、「男子部の日」(5日)、「女子部の日」(12日)の節も刻みます。 ◇原田 11月はまさに、青年部が勇躍前進を期す月でもあります。 1961年(昭和36年)、池田先生は、同年「躍進の年」を別名「青年の年」とされ、青年の育成に一段と力を注がれました。 そして翌年を「勝利の年」とし、そのスタートの意味を込めて11月に開かれたのが、それぞれの「部の日」の淵源となった第10回男子部総会、第9回女子部総会でした。 各会場には、墨痕鮮やかに大書された「勝利」の文字が掲げられていました。男女青年部は、その文字を生命に焼き付けて新出発したのです。 ![]() 戸田先生が「国士訓」で示した“国士10万”の構想を実現し、精鋭10万人が集った第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で) ◆西方 この半年前に当たる61年5月3日、先生の会長就任1周年となる本部総会の席上、男子部総会で“10万人結集”を目指すことが正式に発表されました。 ◇原田 “10万人結集”は、54年に戸田先生が「大白蓮華」の巻頭言に発表された「国士訓」の指針です。 「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」 戸田先生は明治期のお生まれなので「国士」という表現をされましたが、それは、日本のみならず世界の民衆の幸福と平和を築く人材のことです。戸田先生は宗教の世界に閉じこもるのでなく、仏法を根本に社会の平和と発展に貢献していく青年の使命を示された。そうした人材が10万人集うならば、新しき時代を建設する堅固な礎が築かれるとの信念と確信の叫びでした。 ◆大串 この戸田先生の師子吼を誰よりも真剣に受け止められたのが、当時、青年部の室長だった池田先生でした。 ◇原田 「国士訓」発表当時の男子部員は1万人を超えたばかり。「10万」という数字を皆、夢物語のように感じていました。しかし先生だけが、心深く誓われていたのです。“たとえ誰がやらなくても、私は、断じて、戸田先生の構想を実現してみせる!” 先生は、そのために、率先垂範の行動で広布の戦野を駆け巡り、連戦連勝の金字塔を打ち立てていかれました。 ◆樺澤 男子部は58年9月に部員が10万人、61年5月3日に25万人の陣列となり、拡大の渦の中での“精鋭10万人結集”でした。 ◇原田 11月の総会前には、男子部も女子部も各方面の総会を開催し、かつてない大結集を成し遂げます。 例えば、九州での男子部の総会には、部員数の7割を超す1万7000人が集いました。先生はこの頃、「大阪事件」の裁判が大詰めを迎え、何度も出廷しなければならない緊迫した状況の中、全ての方面総会に出席されました。 男子部・女子部が歴史的な大躍進 師の構想を実現する弟子の「誓い」の証し ◆西方 そして11月5日、東京・国立競技場で第10回男子部総会が開催され、精鋭10万人が集います。総会に参加できたのは、首都圏を中心とした代表のメンバーであり、多くの人が弘教を実らせて参加したと伺っています。 ◇原田 その通りです。私も当時、行進メンバーの一員として総会に参加しました。 2週間ほど前から、行進の練習を行いましたが、当初、歩調や歩幅が全く合わず、不安ばかりが募りました。 しかし先生が、“この総会は、青年部の室長として、私の最後の仕事になるんだ”とおっしゃっていたとの話を伺い、皆で再び奮起しました。 先生はその1年半前に会長になられていたわけですが、先生にとって“10万人結集”は、戸田先生の不二の弟子として「国士訓」の構想を断じて実現してみせるとの誓いの証しにほかならなかったのです。峻厳な師弟の魂に触れ、身の引き締まる思いでした。 “日本一の行進をして、弟子の心意気を示そう!”と皆で心を一つにし、荒川の土手や晴海埠頭などで何度も練習を重ね、本番を迎えました。 青空に浮かび上がるような「勝利」の文字。音楽隊のファンファーレが轟き、スタンドを埋め尽くす参加者が見つめる中、緊張しながら行進したことは、今も胸の奥に鮮烈に焼き付いています。 “何があっても、生涯、池田先生と共に、学会と共に進もう!”と、深く決意させていただいた出来事でした。 信仰の目的とは幸福になること ◆大串 女子部としても、61年11月12日に8万5000人が結集した第9回女子部総会は、大きな師弟共戦の歴史です。 ◇原田 総会の会場となった横浜・三ツ沢の競技場は、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表された学会の平和運動原点の地です。 女子部も当日を迎えるまでの1年間で、部員が11万人以上も増加し、歴史的な大拡大で総会を勝ち飾りました。 この席上、池田先生は三つの指針を贈られています。 「信仰の目的は幸福になることにある」 「次代を担う女性指導者に」 「全員が教学部員になろう」 以来、その師の心のまま、女子部の皆さんは毎年巡り来る「11・12」を起点に、創価の女性として広布に生き抜くことを誓い合い、行学の二道に率先されています。 近年は「池田華陽会御書30編」の読了運動を軸に、婦女一体で歓喜の歩みを進める姿は学会の希望です。 ◆林 改めて三つの指針を胸に、前進してまいります。 ◇原田 ともあれ、この61年は、先生の師子奮迅の指揮により、学会総体としても、青年を先頭に大躍進しました。そして、ついに62年11月、戸田先生が池田先生に遺言として託された会員300万世帯を達成します。 師弟一体で広宣流布を成し遂げていくという精神が、見事に受け継がれたのです。 ![]() 池田先生が学会厳護の使命に生き抜く牙城会の友に励ましを送る(1983年10月、東京・信濃町の学会本部で) 「冥の照覧」を確信して前進! ◆志賀 その後、先生は、青年部の人材グループの育成にも力を注がれます。66年7月には、女子部の「整理班」が「白蓮グループ」として出発。71年2月には「牙城会」が結成され、76年11月には、それまでの「輸送班」を発展的に解消し、「創価班」が結成されました。 ◇原田 三つのグループに通底していることは何か。その一つが「冥の照覧」ではないかと思います。 これまでも幾度となく、それぞれのグループに対して、先生は「冥の照覧」を象徴する句を贈られました。 北海道で会館厳護に徹する牙城会の友には、「ただ頼む/冥の照覧/牙城会」。 雪が舞う東京の立川文化会館の駐車場で任務に就く創価班の友には、「寒風に/一人立ちたり/創価班」。 そして、白蓮グループの友には、「かげなれど/冥の照覧/まぶしけれ」。またある時には「白蓮の/皆様ありて/創価かな」と。 先生は、こうした句以外にも、さまざまな機会に、数え切れないほど、直接、青年を激励してこられました。 ![]() 私が見守っているよ――千葉文化会館で任務に当たる創価班の友に声を掛ける池田先生(1983年2月) ◆樺澤 小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章には、こう記されています。「生命の因果の理法、言い換えれば、『冥の照覧』を確信して、仏道修行に励むことこそ、仏法者の生き方の基本なのだ。『牙城会』『創価班』『白蓮グループ』などの尊き姿には、その精神がみなぎっている」 ◇原田 どのグループも、先生が手づくりで育ててこられました。一例を挙げれば、牙城会の友と一緒に本部周辺を回られ、花壇の木の根元まで懐中電灯を照らし、詳細に点検された。まさに、先生は身をもって、学会厳護の精神を教えてくださったのです。 来館者を出迎える白蓮グループの清々しい振る舞いに、「学会は素晴らしい」と語る友人や来賓の感動の声を何度も耳にします。 ![]() 福岡・九州平和会館(当時)を訪問した池田先生が、白蓮グループの友を真心から激励した(1980年5月) ◆西方 2019年に「牙城会」「創価班」「白蓮グループ」に入団したメンバーは、各グループの「新時代1期生」として出発しました。以降、小説『新・人間革命』完結からの年数と、同じ数を重ねていくことになります。 ◇原田 「新しい力」が「新しい広布の扉」を開く――これが広布の鉄則です。若き皆さんは、広宣流布の新時代を切り開く先駆者です。「陰徳あれば陽報あり」(御書1180ページ)、「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」(同1527ページ)との御金言を胸に、勇躍の前進を期していってください。 壮年・婦人部の皆さんも、池田先生が青年を信じ、激励を送り続けられたように、「新しい人」が無限に力を発揮できるよう、共に「青年の心」で励ましを送っていきましょう! |