Ⅲ部 第2回 2020年09月07日 「青年学会」を築いた若き日の闘争② |
![]() 〈出席者〉志賀青年部長、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 ![]() 池田先生に対するロシア連邦「友好勲章」の叙勲。高邁な思想、人類を結ぶ行動に世界から賛辞が贈られる(2008年2月、東京・港区のロシア大使館で) 師の薫陶を命に刻んだ「戸田大学」 激闘の中で学ぶ鍛錬の青春 ◆志賀 「わが創価学会は『学会』という名前の通り『学ぶ会』です」との池田先生の指針を胸に、青年部は、コロナ禍の中にあってもオンラインでの御書講義を行うなど、工夫しながら真剣に研さんに励んでいます。 そして「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31ページ)との御金言を自らの誓いとし、行動しています。また、男女学生部のメンバーは環境に負けず、懸命に勉学に挑戦しています。 ◇原田 池田先生は、青年部の皆さんが大きな試練に立ち向かい、奮闘されている姿について「私は胸を熱くして見守っています。それぞれに今、言い知れぬ苦労があるだろうけれども、全てが自分自身の生命の財宝となる」と語られています。 また、「青年リーダーは、皆、人の何倍も忙しい」「だからこそ、激闘の中で学んだことが、命の深き滋養となる」と語られ、真剣勝負で学んだことが全て大きな成長の糧となる、と励ましを送られたこともあります。 ◆大串 池田先生との対談集を編んだ著名人に、物理学者でモスクワ大学の総長を務めたログノフ博士がいます。博士は、先生との出会いは「私の精神生活に多大な影響を与え、人生観を広げ、狭い専門的な関心だけでなく、多様な姿を見せる人生に深い意義を与えてくださいました」と述べています。 ◇原田 ログノフ博士は、池田先生のことを「精神的な師匠」とまで言われます。このような、世界中の知性からの揺るぎなき信頼も、全て若き日の「戸田大学」における恩師からの薫陶があったからだと、先生はよく語られます。 池田先生は夜学に通いながら、1949年(昭和24年)1月から戸田先生が経営する出版社に勤務されます。その後、経営の悪化が深刻になる中でも、池田先生は必死で師の事業を支え抜きました。しかし、50年の年頭、戸田先生は「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」と池田先生に語られます。昼夜を問わぬ池田先生の献身なくしては、事業の窮地を脱することはできない状況であったからです。 そして戸田先生は、池田先生を日曜ごとに自宅に招き、個人教授をされました。戸田先生が会長に就任した後は、市ケ谷にあった会社の事務所で毎日、始業前に授業が行われることになります。師と弟子が一対一で、またある時は数人のメンバーに対し、魂を注ぎ込むかのように万般の学問を講義されたのです。これが「戸田大学」です。 ◆大串 一回一回、真剣勝負で行われ、講義中にノートを取ることが許されなかったことは有名な話です。 ◇原田 講義の中で戸田先生は、こんなエピソードを紹介されたそうです。 長崎で、オランダ医学を勉強した蘭学者がいた。全て書き取っていたので、その筆記帳は膨大な量となり、行李がいっぱいとなった。しかし、海を渡り帰る途中、船が沈んでしまい、筆記帳を失ってしまった。頭のなかには、何も残っていなかった――戸田先生は「だから、君たちは、頭のなかに入れておくのだ。メモはだめだ」と。 私たちも、池田先生から指導を受けている際、メモを取った瞬間に「メモを取ってもしょうがないじゃないか。生命に刻むことが大事なんだ」と指摘されたことがあります。池田先生は、戸田先生の教え通りに私たち青年を訓練してくださったのです。 ◆林 その科目は「経済学」「法学」「化学」「天文学」「日本史」「世界史」「漢文」「政治学」などでした。 ◇原田 戸田先生は、このほかにも、青年の育成に力を尽くされ、『永遠の都』『水滸伝』『三国志』『平家物語』『モンテ・クリスト伯』『隊長ブーリバ』『九十三年』などの名著も取り上げて講義されていました。 よく、池田先生は「戸田大学で学んだ」と前置きをされながら、「御聖訓」「箴言」「古典」などを私たちに教えてくださいます。それほど真剣に、恩師からの教えを生命に刻まれ、大事にされてきたのだと思います。それが先生の膨大なスピーチ、指導、講演、また提言や対談集などにも収められています。 戸田先生は、「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」と訴え、池田先生には、常々、「今日は、何の本を読んだか?」と聞かれたそうです。そして、本の名をお伝えすると、「その内容を述べなさい」「感想は?」と矢継ぎ早に質問されたといいます。しかも、その訓育は、戸田先生が亡くなる2週間ほど前まで続いているのです。 ![]() 一対一の個人教授――戸田大学では真剣勝負の講義が続いた 「一輪の花」を無上の栄誉と感謝 ◆西方 「戸田大学」で、ある講義が修了した時のことです。戸田先生は机の上の一輪の花を取り、池田先生の胸に挿されました。そして、「この講義を修了した優等生への勲章だ」「金時計でも授けたいが、何もない。すまんな……」と言われています。当時は、戸田先生の事業が苦境の底にあり、池田先生が、死にものぐるいで学会と戸田先生を支えていた時期です。 ◇原田 これは、創価の師弟の本質を語る上で大変に重要なお話です。 池田先生はその頃、病とも闘われながら題目を唱え、阿修羅のごとく働き、勉強も重ねられました。それが「何ものにも負けない力となった」と言われています。 池田先生は「一輪の花」を深く信心で捉え、広宣流布の大師匠からの最高の賞讃と受け止め、アパートに帰宅した後も御宝前にそなえ、感謝の祈りをささげられました。御書に「ただ心こそ大切なれ」(1192ページ)と説かれている通りの実践です。 先生はこの時の真情について「その花こそ、世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章であると思った。感動を覚えた。自分は最大の幸福者であると感じた」とつづられています。 ◆樺澤 作家の佐藤優氏も週刊誌「AERA」で連載中の「池田大作研究」で、このエピソードについて論究しています。「胸に挿した一輪の花が、学位なのである。一輪の花は、博士号よりも重い学位だ。卒業証書や学位のような肩書が重要なのではない。学知を身体化することが重要なのである」と述べ、だからこそ池田先生が「一輪の花」を挿された時に「自身は最大の幸福者であると感じた」と指摘しています。 ◇原田 今、池田先生の平和・文化・教育への貢献に対する賞讃の声はやむことがありません。世界24カ国からの国家勲章、大学・学術機関からの396の名誉学術称号など、世界中から贈られた「英知の宝冠」は、その結実なのです。 また、戸田先生は折に触れて、功労のあった同志を最大にたたえてこられました。学会はそうした精神を継承し、奮闘する同志を労い、激励するために、感謝状などを授与して、表彰を行っています。 池田先生は、これらについて「単なる一枚の紙だというような受け止め方をしたら絶対に後悔するよ。一人一人が、人生を広布に懸けた証明なんだ。そういう心を持っていくことが重要なんだ」と教えてくださったこともありました。これも大変に重要なご指導です。 ![]() 戸田大学では恩師から万般の学問の講義が。使用された教材の一部 「未来のために日々、猛勉強を」 ◆志賀 池田先生は、行く先々で青年を薫陶されました。ご揮毫や和歌、句などを頂いた人たちも、膨大な人数になります。先生の広布旅の大きな目的の一つに、各地の広布を担う青年の育成があったと言っても過言ではないように感じます。 ◇原田 1977年5月のことです。池田先生は、この前月に開館したばかりの熊本文化会館を訪問されました。 そこでは、歴代会長の文字が刻まれた石碑や、同会館の由来の碑などの除幕式が行われました。先生は突然、県の青年部長を指名し、碑文を読むよう呼び掛けられました。その青年部長は急に言われて焦ってしまったのか、難しい漢字などを読む時に言いよどんでしまいました。先生はリーダーとして事前に碑文をしっかり読んでおく努力、勉強が大切であることを語られながら、戸田先生からの薫陶を、こう述懐されます。 「戸田先生の、青年に対する訓練は、本当に厳しかった。『勉強しない者は、私の弟子ではない。私と話す資格もない』とさえ言われていた」「戸田先生が厳愛をもって育んでくださったおかげで、今日の私があるんです。青年は、未来のために、どんなに忙しくても、日々、猛勉強するんだよ」と。 ◆西方 あまりに峻厳な師弟の世界。そして、そのすべてを私たち青年に伝えようとしてくださる池田先生の大慈大悲。弟子として、襟を正さずにはいられません。 ◇原田 先生は、小説『新・人間革命』をつづられた真情について「『戸田大学』で恩師から一対一の薫陶を受けたように、日本中、世界中の青年たちと、この書を通して命と命の対話を交わしたいということであった」と述べられています。 世界中の青年が『新・人間革命』を研さんし、師と対話する思いで日々の信仰の糧としています。徹底して学び、実践する青春の中に鍛えがあり、自らの血肉となっていきます。後継の皆さんが一段とたくましく成長していくことで、さらに強固な青年学会が築かれていくのです。 |