Ⅲ部 第1回 2020年09月03日
「青年学会」を築いた若き日の闘争①

〈出席者〉志賀青年部長、西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

原田会長と語り合う青年部の代表。左から時計回りに志賀青年部長、西方男子部長、樺澤学生部長、大串女子部長、林女子学生部長(8月12日、学会本部別館)

新たな「青年学会」の構築を!
池田先生の広宣流布の大闘争について、青年部の代表が原田会長に聞く連載の第Ⅲ部がスタートします。

◆志賀 来る9月27日に「世界青年部総会」がオンラインで開催されます。この日に向けて、世界中の青年が自分史上最高の成長を目指し、自行化他の実践に懸命に励んでいます。
そこで今回から、池田先生の若き日の闘争を学んでいきたいと思います。

◇原田 池田先生は常々、「学会は『青年学会』である」と語られています。青年部の皆さんが躍動する姿こそ広宣流布の希望であり、社会の希望だからです。
この、青年学会の伝統を築かれたのも戸田先生の不二の弟子として一切の責任を担い、戦ってこられた池田先生です。
戦後間もない草創期、青年の多くは生活苦にあえいでいました。その中で先生は、男子部の第1部隊長として“世界の民衆を牽引するのは、ひとえに我ら青年だ。その指導原理となる生命尊厳の大哲理を、今こそ学び語り、広げようではないか”との意気で、同志を鼓舞されました。
偉大な広布の使命に目覚めた同志が次々に立ち上がり、先生が率いる第1部隊の陣列は1年間で3倍もの拡大を果たしました。これが今日にまで続く「青年学会」の大きな礎となったのです。
池田先生は、戸田先生にお仕えした11年間の思い出をとても懐かしそうに語られます。私も幾度となく、伺ってきました。その一つ一つが、創価の師弟の道を歩む上で大切な指標となります。

1947年8月14日。この日の不二の師弟の出会いこそ、現代に続く世界広布の大絵巻の源流

地涌の使命を自覚した師弟の出会い――恩師の構想を全て実現
◆西方 池田先生が戸田先生と初めて出会われたのは、終戦満2年を迎えようとする1947年(昭和22年)の8月14日です。故郷の東京・大田区で行われた座談会でした。
この時、「立正安国論」の講義をされていた戸田先生は、講義の後、19歳の池田先生に対して、「いくつになったね」と声を掛けられます。

◇原田 戸田先生は事前に、「わが地域には、こういう青年がいます」と、地元の方から池田先生のことを、聞かれていたそうです。
戦争で兄が亡くなったこと、空襲によって家が焼かれてしまったこと、働きながら両親を支えていること――そのような状況をご存じだったそうです。
だからこそ「いくつになったね」という、旧知の間柄のような温かな言葉が自然と出てきたのだと思います。19歳という年齢を聞かれた戸田先生は、深い感慨をかみ締められていたようです。というのは、北海道から東京へ初めて出てきた戸田先生が、生涯の師となる牧口常三郎先生と最初に会われたのが、19歳であったからです。まさに運命的な師弟の出会いです。

◆大串 池田先生はこの時、戸田先生に「正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」等と質問をされます。

◇原田 戦後の混乱の中、皆が生きる目標を見失っていた時期です。青年として、これからの人生を、何を信念として、何のために生きるのか――池田先生は懸命に求めていました。そして当時、胸を病まれ、生死の問題を真剣に考えられていました。
戸田先生は、池田先生の問いに、心のひだに染みるように話をされ、生老病死の打開の道を訴えられます。
さらに、「正しい人生とは何ぞや、と考えるのもよい。しかし、考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。必ずいつか、自然に、自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう」と語られました。池田先生は、率直な言葉、人柄に「この人なら信じられる」と直感されたのです。

◆西方 この場で池田先生は、戸田先生への感謝を込め、「旅びとよ いずこより来り いずこへ往かんとするか……嵐に動かぬ大樹求めて われ 地より湧き出でんとするか」と即興詩を披露されます。

◇原田 戸田先生は最後の一行を聞いた時に、にこやかにほほ笑まれます。
米デューイ協会元会長のガリソン博士は、この即興詩を通して「戸田会長はその精神に触れ、民衆を救済する地涌の菩薩の出現を感じ取ったのではないでしょうか。廃墟の極みから不死鳥が躍り出たのです」と述べています。
池田先生は10日後の47年8月24日に入信されます。まさにこの時から、戸田先生と池田先生の師弟は、戦後日本の平和建設と民衆救済の歩みを始めたのです。

◆樺澤 池田先生は、戸田先生を生涯の師と定めた理由について、「軍国主義と戦い、獄中闘争を貫いたという事実は、決定的なことだった」と語られています。戸田先生もまた、出獄して2年、心を同じくする弟子の出現を待たれていたのではないでしょうか。

◇原田 戦時中、学会は軍部政府から大弾圧を受け、牧口先生・戸田先生は逮捕され、牧口先生は獄中にて殉教を遂げられます。
そのような中、年配者の多くがきびすを返すように退転してしまった。そうした状況から、戸田先生には“頼みとすべきは、青年しかない”との強い思いがあったのです。
戸田先生は、投獄されていた巣鴨の東京拘置所の独房で作られた「同志の歌」に「妙法流布の 大願を 高くかかげて 独り立つ」と詠まれています。ここには学会精神の根本がとどめられています。さらに、「捨つる命は 惜しまねど 旗持つ若人 何処にか」との一節からは、遥かな広布の未来を展望して、後継の青年の出現を求めていたことがうかがえます。そして現実に、池田先生を先頭に「旗持つ若人」が集い、立ち上がっていったのです。
本年1月、欧州青年部が歌った新愛唱歌「トーチベアラーズ(松明を持つ人)」のDVDが池田先生に届けられました。作詞に当たり、青年たちは「同志の歌」を学び合い、「広布大願の松明」を受け継ぐ決意を固め合ったそうです。
来る10月2日は、池田先生が初めて世界広布の旅に出発されてから60周年の佳節です。戸田先生が呼び出された地涌の陣列は、池田先生の激闘によって今や、世界192カ国・地域にまで広がったのです。

正義の松明は、われら青年の手に! 愛唱歌「トーチベアラーズ」と共に進む欧州青年部(1月、ドイツで)

師の心を察知し電光石火の行動
◆林 池田先生は、戸田先生のもとで薫陶を受けられました。原田会長が聞かれた、若き日の池田先生の奮闘について教えてください。

◇原田 池田先生が、よく語られていたことについて、3点述べたいと思います。一つ目は「私は、当時の青年部から“防波堤”と呼ばれていたんだ」ということです。
戸田先生は、全力で青年を訓練されていました。時に厳しい指導もされましたが、その対象は常に池田先生だったのです。先生は、このことについて「弟子としての私の誇り。誰よりも深く、恩師の獅子吼を、わが魂に刻み得た青春」とつづられています。
他の幹部は皆、池田先生の陰に隠れるようにして、戸田先生からの叱責の“直撃”を受けることはありませんでした。戸田先生には、生涯、師弟不二の道を歩もうと覚悟を定めていた池田先生への絶大な信頼があった。また、なんとしても、池田先生を世界の大指導者に育てなければならないとの強い思いをお持ちであった。それゆえに、あえて、誰に対してよりも厳しく指導してこられたのです。
しかし、当時の青年部は、戸田先生がなぜ厳しい指導をされていたのか、分からなかったそうです。池田先生は「戸田先生の真情を、私が皆に“解説”していたんだよ」と語られたことがあります。

◆大串 かつて池田先生は、アメリカのコロンビア大学での講演で「今の私の98パーセントは、すべて、恩師より学んだものであります」とも述べられています。まさしく「不二の弟子」の道を歩まれてきたのですね。

◇原田 二つ目は、戸田先生から「鋭いアンテナを持っているな」と、よく言われていたということです。
受信力の鋭いアンテナのように、他の人ならば何も感じないようなことまで、戸田先生の発言の意味を深く理解して、すべてを把握した上で対応していくことができると。
実際に、池田先生は戸田先生が行くところ、常に、身に影が添うように敏速に動き、一切の準備をされました。そして、戸田先生の心の動きを一つ一つ鋭く感じ、電光石火で戦いの手を打たれていったのです。

◆林 なぜ、それが可能だったのでしょうか。

◇原田 常に、戸田先生と同じ心で生きようと決め、先生のお言葉の真意はどこにあるのかを考え続けられていたからです。つまり、心で日々、戸田先生と対話し、師匠を心に抱いておられたからです。どこにいようが、師が厳として、己心にあってこそ、真の弟子といえます。

「大作がいれば学会は安心だ」
◆樺澤 師から「学ぶ」だけでなく、その通りに「実践」することが大切だと感じます。戸田先生は「大作がいれば、学会は安心だ」と言われていたと伺いました。

◇原田 その通りです。池田先生は「戸田先生が示された構想は、全部、実現してきた」と、よく語られます。これが三つ目です。
1951年5月3日の第2代会長就任の際、戸田先生は「75万世帯の弘教」を宣言されます。当時、戸田先生の会長推戴へ署名した会員の数は約3000人です。「75万世帯」は、実感の湧かない途方もない数だったのでしょう。
しかし、池田先生は一人立たれた。就任式には、折伏してきた友人と共に参加し、この日、弘教を実らせています。さらに翌52年2月、蒲田支部で指揮を執り、一支部で201世帯という拡大を成し遂げます。つまり、「75万世帯」への第一歩をしるされただけでなく、「75万世帯」達成への突破口を開かれたのです。
池田先生は「戸田先生が冗談のように言われたことまで、ことごとく現実のものとした。だから先生は、晩年は私の前では冗談すら言われなくなったんだ」とも語られたことがあります。戸田先生が語る、遠大な広布の展望を“夢物語”として受け取っていた人が多かったと聞きます。
事実、戸田先生が会長就任式で発表された、75万世帯達成へという宣言も当時の聖教新聞には掲載されなかった。実質約3000人に過ぎない学会が75万世帯もの目標を活字として掲げることへのためらいがあったのでしょう。その中で、池田先生だけが、師と共に、いや、師に代わってこの大偉業を必ず達成しようと決意された。これが、まことの弟子であり、そこに真実の師弟の道があります。
今や学会は世界宗教として大きく飛躍を遂げました。日蓮仏法を根幹とする平和思想を世界に広げるとともに、創価一貫教育の学びや、民主音楽協会、東京富士美術館などの諸機関を設立。世界を結ぶ平和・教育・文化の大運動をリードしています。草創期には想像すらできなかったことを、すべて現実のものとしてきたのが池田先生なのです。

◆志賀 その池田先生が今、どれほど青年部を信頼し、成長を待たれているか。青年部は後継の道を断固として進んでいきます。

◇原田 世界広宣流布の大潮流の先頭にいるのは紛れもなく青年部の皆さん一人一人です。コロナ禍という未聞の大試練の中、新たな発想と挑戦で対話を拡大し、希望と励ましの連帯を広げている青年部の皆さんは、池田先生と同じ青春を送っています。どうか、そのことを最高の誇りに師弟不二の道を真っすぐに歩んでもらいたいと思います。