Ⅱ部 第20回 2020年08月20日 「大衆とともに」――公明党の結党④ |
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 民衆のために命懸けで働く 先生が示した永遠の指針 ◆林 公明政治連盟(公政連)は結成後、初めて挑んだ1962年(昭和37年)7月の参院選で、立候補した地方区2人、全国区7人の全員が当選し、非改選の6人と合わせて、15人になります。 これによって、参院で第3党(会派)になり、政治の世界で大きな意味をもつ、「院内交渉団体」の資格を得て、「公明会」を結成しました。 ◇原田 公政連の躍進は、新聞各紙でも注目されます。 小説『新・人間革命』第6巻「波浪」の章に描かれていますが、一方で、その反動から、秋田・尾去沢鉱山や長崎・佐世保の中里炭鉱などの労働組合で、学会員への陰湿な圧迫が起きました。 組合が推薦した候補の票が思ったよりも伸びず、公政連の候補の票が驚くほど多かったことが、その理由です。この二つの出来事は、学会員が訴えた裁判で勝訴するなど、決着をみますが、学会への社会的な圧力は、一段と強くなるのです。 先生は、「学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から、時代の建設という、波浪の猛る大海に乗り出したのだ」と記されています。「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」こそが、池田先生の座右の銘です。 公明選挙、政界の浄化を掲げた、民衆による新しい草の根の挑戦は、傲慢な既成勢力からのやっかみ等による迫害に直面しましたが、学会は全てを勝ち越え、発展してきたのです。 ◆樺澤 当時、世間では、学会の崇高な目的が理解できず、さまざまな臆測が流れていました。そこで、参院選を終えた直後の本部幹部会で、池田先生は次のように明快に言われます。 「宗教団体である学会が担う第一の使命は、正しき仏法の流布であります」「政策の問題については、公政連、並びに公明会に、すべてお任せをしたいと考えております」 ◇原田 学会の方針は、終始一貫しています。 『新・人間革命』第11巻「暁光」の章には、64年11月に公明党が結党された後、先生が海外の記者のインタビューに、次のように答えられる場面が描かれています。 「政治には、確固とした政治哲学、政治理念が必要です。それがなければ、根無し草のように、ただ状況に流されるだけの政治になり、民衆は動揺し、不幸になってしまう。 私たちは、仏法で説く慈悲や、生命の尊厳の哲理を理念とし、“根底”とした政治の実現をめざして、公明党をつくりました。だが、それは、宗教を直接、政治の世界に持ち込むこととは違います。 公明党は、広く国民のために寄与することを目的とした政党であり、党と学会とは、運営面などでも、一線を画しております。公明党も、創価学会も、平和と人びとの幸福を実現するという根本目的は同じですが、政治と宗教とは役割が異なります。 宗教は人間の精神の大地を耕すものです。そして、その広大な大地の上に、芽吹き、花開き、結実する草木が、政治も含め、広い意味での文化です。私たちは、精神の土壌を耕し、政党という種子を植えました。今後も、全力で応援はしますが、それがいかに育ち、どんな花を咲かせ、実をつけるかは、草木自体に任せるしかありません」 ◆樺澤 この章では、海外各国にあっては、「政党結成の必要は、全くないと思っています」との先生の考えも示されています。 ◇原田 その通りです。このことも先生は、さまざまな場面で明言されています。これは、SGIの一貫した方針です。 ![]() 人類の永遠の平和と、ヒューマニズムの勝利のため、池田先生と学会は、“波浪”の猛る大海へ 誰も置き去りにしない社会へ! ◆大串 62年9月、公政連は結成後初の全国大会を、東京・豊島公会堂で行います。 来賓として招かれた先生は席上、公政連の議員のあり方について、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆のなかに入りきって、大衆のなかに死んでいっていただきたい」と語られています。現在の公明党の原点といえる指針です。 ◇原田 発足当初、公明党は「大衆福祉」をスローガンに掲げました。既成の政党・政治家からは、「福祉なんて政治ではない」「政治は慈善事業ではない」「素人」と陰口をたたかれたり、嘲笑されたりしました。 しかし今や、どの政党も、庶民の生活の大事なポイントである「福祉」「社会保障」を政策の柱に掲げています。 SOKAチャンネルVODの番組「大衆とともに~公明党の誕生」で、東京家政大学名誉教授の樋口恵子氏は、「福祉という言葉に一種の貧困対策というような考え方が、まだ持たれている時期に、公明党は“これが国の政治の一つの中心ですよ”ということを広げてくれた」と述べています。 また、中学3年生までの教科書無償配布、児童手当の実施なども公明党の実績です。 国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」は、「誰も置き去りにしない」社会を目指したものです。コロナ禍の現在、ますますその重要性が叫ばれていますが、それは現実の政治の世界においても同様です。 先生が示された「大衆とともに」との指針は、時代を経るごとに重みを増しているのです。 ![]() 今や常識となっている義務教育の教科書「無償化」は、公明議員の粘り強い主張によって実現(1967年9月、千葉県内の小学校で真新しい教科書を受け取る子どもたち) 日本を背負って立つ青年の前で ◆西方 64年5月の本部総会を経て、同月の男子部幹部会の席上、先生は公明党の結成を提案されます。男子部にとって、忘れてはならない歴史です。 公明党は結党当初から、金権腐敗政治と戦い、国有財産払い下げを巡る不正を浮き彫りにし、共和製糖を中心とするグループの不当融資問題を追及するなど、「政界浄化の党」としても真価を発揮します。 『新・人間革命』第9巻「衆望」の章では、党の結成、衆議院進出への先生の思いがつづられています。 ◇原田 私は当時、聖教新聞社に入社して1カ月でした。この幹部会で学生部から男子部に進み、部隊長の任命を受けました。席上、先生は、政党の結成を正式に表明されました。「いよいよこれから新しい時代が来るんだ」と感動で鳥肌が立つ思いでした。 先生は、「未来の学会を、日本の国を背負って立つ、わが男子部の決議として、公明党を結成することを要望していきたいと思いますが、よろしいでしょうか」と呼び掛けてくださいました。 その時、会場から地響きにも似た歓声と拍手が巻き起こりました。「未来の学会」「日本の国」を背負って立つ、青年の前で発表されたことに、本当に大きな意義があると思います。 ◆西方 「衆望」の章には、次のようにも記されています。 「この決断を下すまでには、長い、長い呻吟があった。 地方議会や、衆議院の行き過ぎを是正する参議院に同志を送るのと、政党をつくって、衆議院にも進出するのとでは、意義のうえでも、費やす力のうえでも、大きな開きがある。 党を結成し、衆議院に進出するということは、政権をめざし、一国の政治を担っていくことにつながるからだ。 また、もし、公明党に何か問題が生じれば、党を誕生させた母体である創価学会が、批判の矢面にさらされることも、覚悟せねばならなかったからである」 「しかし、仏法者として、立正安国という民衆の幸福と平和を実現していくためには、日本の政治の改革を避けて通るわけにはいかなかった」 ◇原田 この言葉の通り、先生は一切の矢面に立ち、学会、そして学会員を守りながら、道を切り開いてくださいました。 先生は結党時、党の人々に、「虚栄と慢心、おごりを戒めること」を訴えられます。 「衆望」の章にも書かれている通り、公明党の結成大会を日大講堂で開催することに対し、当時の委員長らに次のように指摘し、忠告されます。 “党の運営について、口を出すのは控えてきたし、これからもそうするつもりである” “しかし、これから発足しようという、なんの実績もない、小政党の公明党が、日本最大級の会場である日大講堂を使おうとしていること自体、虚栄ではないのか。何か勘違いしているのではないか” また、「傲慢でわがままな議員」であったり、「私利私欲をむさぼるような生き方」などであってはならない。親身になって人々の相談に乗らず、約束も守れない――そのように、民衆に仕えるという根本精神を見失った議員であってもならない。 先生は、こう厳しく警鐘も鳴らされています。 民衆に奉仕し、民衆のために命懸けで働き、民衆のための政治を実現する――全民衆に信頼される公明党になってほしいがゆえに苦言を呈されたのです。 ◆大串 先生は、「結党までは、自分が責任をもつが、あとは党として、皆でよく話し合い、自主的に運営していってもらいたい」と強く念願され、結成大会にも出席されませんでした。 ◇原田 結成大会には、14社17人の外国メディアも取材に訪れました。 立正安国の実現のため、政治の分野に、いよいよ本格的な開拓の道が刻まれることになったのです。先生は、結成大会が開会される時刻になると、学会本部の広間の御本尊に向かい、深い祈りを捧げられました。 一方で、既成勢力の反発も覚悟しなければなりません。世間の誤解、先入観を払拭し、公明党の目指す政治が、いかなるものなのかを、皆に正しく理解してもらうことが、決して容易ではないことも明白でした。 まさに、波浪の海原への船出でした。しかし、そこには、確固たる羅針盤がありました。創立者である池田先生が示された「大衆とともに」とのモットーです。公明党には今こそ、この立党の精神を燦然と輝かせ、政権与党として、見事なかじ取りを期待したい。 |