Ⅱ部 第17回 2020年08月10日
「大衆とともに」――公明党の結党①
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

英知の人材を陸続と輩出――「民衆」に光を当てた政治を
◆樺澤 公明党は、生命・生活・生存を最大に尊重する「中道政党」として、1964年(昭和39年)11月17日に結党されました。以来56年。現在は与党として政権の一翼を担い、未曽有のコロナ禍にあって、一律10万円の特別給付金や大学生への緊急給付金をはじめ、ウイルス対策として25本を超える提言を出すなど、「希望の灯台」として、存在感を増しています。今回からは、国民の命と暮らしを守る公明党の原点を確認していきたいと思います。

◇原田 創価学会は、日蓮大聖人の仏法を世界に弘めるとともに、人間主義を根本に、平和・文化・教育の運動を幅広く展開しています。
一方、「生命の尊厳」「人間性の尊重」「世界の恒久平和」という理念を、現実社会、なかんずく政治の世界で具現化させるため、池田先生が創立されたのが公明党です。学会は支持団体として、その公明党を支援してきました。

◆樺澤 公明党のそもそもの出発点は、54年11月22日、創価学会に設置された文化部です。後に、この文化部員たちが、地方議会へと進出します。

◇原田 小説『人間革命』第9巻「展開」の章には、戸田先生の展望を通して、学会が政治に強く関わりを持ち始める理由が記されています。
「広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。御本尊を受持して信心に励んだ人は、まず、人間として自己自身を革命することは当然のことだ。革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。いや、地域社会ばかりではない。それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう」
「人間革命」の原理に基づいた極めて重要な指針です。

◆大串 さらに、「政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。これが妙法の広宣流布の活動というものだ」とも記されています。

◇原田 そうです。政治の分野だけでなく、社会のあらゆる分野で、生命尊厳の哲理を持った人材が、陸続と輩出されゆくことを願ってのことなのです。
「新しい運動の堂々たる一歩」
◆西方 初めての選挙となった、55年4月の統一地方選では、54人の文化部員が立候補し、53人が当選しています。
当時は、自民党と社会党による、なれ合いの堕落政治ともいわれる「55年体制」が始まるタイミングです。この時に、「民衆」のための政治を志し、学会が政治に関わったことは、大きな意義があると思います。
また、苦しんでいる庶民の声を直接届けられる、地方議会から出発したことも注目すべき点であると思います。

◇原田 当時は東西冷戦下にあり、資本主義陣営と社会主義陣営のイデオロギー対立がそのまま日本に持ち込まれ、不毛な対決型政治が続いていました。金権政治や、選挙での買収も横行し、「造船疑獄」などの大型贈収賄事件なども頻発していました。
そうした腐敗堕落した政治状況を、戸田先生は深く憂慮されていたのでしょう。
財界・大企業を擁護する当時の保守政党、大組織の労働者の利益ばかりを優先する革新政党からは、多くの苦しむ「庶民・大衆」が置き去りにされていました。今こそ、そうした人々に光を当て、民衆不在の政治を変えていかねばならない――。ゆえに、国政から挑戦するのではなく、「庶民・大衆」に一番身近な地方議会から出発されたのだと思います。

◆林 「展開」の章には、「将来、民衆のために、民衆のなかで死んでいく決意の、清廉な人びとの合意として、あるいは政党を結成する必要もあるかもしれない」との戸田先生の心境も記されています。

◇原田 この思いを誰よりも深く理解されていたのが池田先生でした。初選挙の際、戸田先生の命を受け、池田先生は、東京都議選(大田区選出)と横浜市議選(鶴見区選出)の支援の最高責任者を務められました。
多摩川を渡って行き来し、徹底して同志を励まされながら、いずれも見事にトップ当選を果たしたのです。それは、「妙法を胸に、全人類の宿命転換へ立ち上がった民衆が、いかに崇高で、いかに偉大な力をもっているか」を示す戦いでした。「それまでの日本になかった『新しい民衆運動』の、堂々たる第一歩」だったのです。

◆西方 創価学会が政治に関わりをもつようになったことで、無理解による反発が起き始めます。しかし、国際宗教社会学会の会長を務めたドブラーレ博士は、「宗教団体が、その信条に基づいて『社会は、このままでよいのか』と問題提起し、政治に影響を与えるのは当然のことです」と述べています。
また、インド独立の父ガンジーは、「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」「宗教なき政治は(中略)生命を失ったシステムである!」と喝破しています。

「大阪の戦い」で同志を励ます池田先生。友は、“毎日の活動が、楽しくて楽しくて仕方なかった”と振り返る

「師弟不二」こそ勝利の根本要因
◆大串 庶民の声を国政に届けるため、56年7月に初めて参院選に臨みます。この時、地方区2人、全国区4人が推薦され、池田先生が指揮を執られた大阪地方区の1人と、全国区の2人が当選します。当時の模様は、『人間革命』第10巻に詳しく描かれています。いわゆる「大阪の戦い」です。「“まさか”が実現」(朝日新聞)と世間をあっと言わせた勝利でした。

◇原田 先生が大阪で展開された56年の大闘争とは何であったか。「一念」の章に「関西に広宣流布の常勝の大拠点を築き上げることであり、幸福と平和の、崩れざる民衆城を打ち立てることであった」とあります。
2月には、戸田先生の誕生日を祝して、「関西に 今築きゆく 錦州城 永遠に崩れぬ 魔軍抑えて」との決意を、恩師に披歴されています。
それが、5月の大阪支部の1万1111世帯の弘教となって結実するのです。それは本当に容易ならざる戦いでした。私自身、改めて『人間革命』第10巻を読み返しました。感動に次ぐ感動の連続で、池田先生が、戸田先生の思いをいかに真剣に受け止め、戦いを展開されたのか――その信心、「億劫の辛労を尽くした」一念の深さを学び直す機会になりました。

◆林 当時は入会して1、2年のメンバーがほとんどです。新しいことずくめで想像を絶する挑戦であったと思います。

◇原田 「強盛な祈りから始める」――池田先生は、これが勝利の「第1の要諦」であると、教えてくださっています。
それは、関西の責任者になり、1月4日に大阪に向かった先生が、関西本部常住の「大法興隆所願成就」の御本尊に祈りをささげ、「これで、今度の関西の戦いは勝った!」と大確信をもってスタートされたことからも、よく分かります。
「法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1193ページ)との一節を身読され、「強盛な祈り」を根底とした「実践」を貫き、“不可能を可能にする戦い”を展開されたのです。
「第2の要諦」は、「最高の作戦、最高の行動」です。先生は「法華経とは将軍学なり」と体得され、「信心から出た作戦、行動」こそ、「最高の作戦、行動」になることを示されました。実際、半年間で約8000人の方に会い、励ましを送られたのです。自転車を3台も乗りつぶすほどの大激闘でした。
こうして、関西に強靱な広布の組織が築き上げられていったのです。参院選に際しても、関西の同志は、「立正安国」の深き使命を自覚し、決然と立ち上がりました。それは、無名の庶民が、何の報酬も求めず、ただ社会を良くするため、自発的に推薦した候補を応援するという、全く新しい運動でした。

◆西方 大阪出身の私は、草創の先輩方から「峻厳な精神で戸田先生に接する、当時の池田先生の姿を忘れることができない」と何度も聞いてきました。

◇原田 「師弟不二」こそ、全ての根本です。『人間革命』に「師の考えるところと、弟子が懸命に考えることとが合一する時、信仰の奔流は偉大なる脈動となってほとばしる」「師の言葉から、師の意図を知り、さらに、その根源にまで迫って、その同じ根源を師と共に分かち合う弟子の一念は、まことに、まれだといわなければならない。しかし、このまれなる一念の獲得にこそ、師弟不二の道の一切が、かかっているのである」と書かれています。
「大阪の戦い」を勝利に導いた、「師弟」の道の究極が示された箇所であり、現代そして未来永劫にわたり、私たちにとって一番大事な前進の眼目です。
56年1月、池田先生が奮闘を開始された大阪の地に行かれた戸田先生は、中之島の大阪市中央公会堂で「方便品」の講義を行い、こう師子吼されました。
「私が、こうして、大阪へ来て講義などをすることは、大阪の地から、病人と貧乏人をなくしたいためであります。このほかに、私の願いはありません」
そのための闘争が、仏法者の宗教的使命である「広宣流布」の実現であり、社会的使命である「立正安国」の実現です。「生命尊厳」の哲理を根幹とした社会の建設が、現代の課題、時代の要請であることを、私たちは深く自覚していきたい。