Ⅱ部 第11回 2020年06月29日 未来を照らす人間教育の光⑤ |
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 「人生最後の事業」と定め、発展に全力 世界に広がる創価の学びや ◆西方 東西の創価学園、創価大学に続いて、1976年(昭和51年)には、札幌創価幼稚園が開園しました。なぜ、北海道だったのでしょうか。 ◇原田 幼稚園設立も明確に戸田先生のお考えにありました。1955年1月、池田先生は、戸田先生と共に高知を訪問しました。その際の質問会で「学会は学校をつくらないのですか」との問いに対し、戸田先生は「今につくります。幼稚園から大学まで。一貫教育の学校をつくる。必ず、日本一の学校にするよ!」と答えられたのです。この時の、幼稚園から始まる創価一貫教育という戸田先生の構想を、池田先生はしっかりと受け止められていたのです。 どこに幼稚園を開設されるか、先生は思案されていました。北海道は牧口先生、戸田先生の故郷です。そして、札幌は牧口先生が教師として初めて教壇に立った地です。池田先生が北海道の地を選ばれたことに、牧口、戸田両先生への深い敬意を感じずにはいられません。 ◆大串 池田先生は開園の前日にも札幌創価幼稚園を訪問され、教職員と懇談してくださいました。そこで、「創価教育の最初の『教育の門』が完成しました」と語られています。 ◇原田 そうです。入園式当日、先生は自ら園児を出迎えようと、幼稚園の玄関に立ち、一人一人に「よく来たね」「仲良くするんだよ」と優しく声を掛けられていました。また「一緒に記念撮影をしようね」と次から次へと、園児を招き寄せ、ひざの上に抱っこして、記念のカメラに納まっていました。 入園式にも出席された先生は、式が終わってからも、ロビーで園児たちに童話を語ったり、皆にクレヨンやノートなどをプレゼントしたりと、励ましを送り続けました。 入園式の日、当初は予定になかったのですが、先生は帰宅のバスの運行を提案し、ご自身も園児らと共に同乗されました。思い出をつくってあげたい、とのお気持ちと同時に、通園の状況、特に安全面も確認されたかったのだと思います。 車内は、園児が先生を囲むように席に座り、歌をうたったり、なぞなぞをしたりと、和やかな雰囲気に包まれました。乗降場所で園児がバスから降りるたび、先生は、「さようなら。また明日ね」と、手を振って見送りました。子どもたちも「先生、ありがとう! さようなら」と元気いっぱい挨拶をし、心温まる交流を続けられたのです。 成長を願い、全力で園児と関わる先生の姿に接した教職員や保護者も、深い感動に包まれたことは言うまでもありません。 ![]() 香港創価幼稚園を初訪問する池田先生。園児たちに「香港幼稚園は 私の生命なり」との言葉を色紙にしたため、贈った(1993年5月15日) 各国の幼稚園も高い信頼と評価 ◆大串 現在、創価幼稚園のネットワークは香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国に広がりました。先生も海外指導のたびに足を運ばれ、園児たちと交流されています。 ◇原田 92年9月、海外で初めてとなる創価幼稚園が香港の地に誕生しました。翌年5月には先生が初訪問されています。 今、世界中が新型コロナウイルスの感染拡大と戦っていますが、2003年には新型肺炎(SARS)の猛威が香港を襲い、教育機関の休園・休校が広がりました。創立者である池田先生は即座に子ども用のマスクを多数用意し、香港創価幼稚園に贈られたのです。 先生の真心に触れ、香港創価幼稚園では教職員が、自分たちも子どもたちのために、何かできることはないか、真剣に知恵を出し合いました。そして、各家庭で学習を進められるように、授業の内容を録画したビデオCDを作成し郵送しました。内容も素晴らしく、園児からも大好評だったそうです。 こうした対応が評価され、約2カ月後、授業が再開した際には、香港の教育長官が同園を訪れました。衛生面での対策が万全であることから、香港創価幼稚園は衛生教育の「モデル校」として選ばれたのです。 海外の創価幼稚園が現地で信頼され、実績を重ねている様子は、創価教育の持つ普遍的な力を社会に広く証明していることにほかならないと思います。 ![]() カリフォルニア州オレンジ郡に広がるアメリカ創価大学のキャンパス。ここから世界市民のリーダーが陸続と 2001年5月3日――待望のアメリカ創大が開学 ◆林 2001年、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが開学しました。先生は、アメリカ創価大学の設立構想を、いつごろから練られていたのでしょうか。 ◇原田 先生は創価大学が開学した当初から、アメリカにも大学をつくる構想を周囲に語られていました。その上で、本格的に着想されたのは1975年1月、SGI発足へ向かう戦いの中にあった時だと思います。この頃、先生は繰り返し繰り返し、「アメリカにも創価大学をつくりたいな」との思いを語られていました。先生の壮大な世界平和への構想のひとつに、アメリカ創価大学があったことは間違いありません。 先生は80年10月、さらに翌81年前半には3度訪米されています。また、同年1月には、用地取得に向けた最初の視察団がアメリカを訪れるなど、具体的な動きが始まりました。 ◆西方 この時期は第3代会長辞任から、反転攻勢の戦いを起こされていた時です。壮絶な闘争の中でも、創価教育のさらなる発展を願い、行動されていたことに感動を禁じえません。 ◇原田 84年3月10日には、先生が出席され、カリフォルニア州サンディエゴ市の郊外で、創価大学サンディエゴ校の起工式が行われました。 先生はあいさつの中で「人間の人間たる一つの証しは、学問をすること、真理の探究にあるといってよい。平和と文化の発展といっても、学問つまり教育の向上がその基本となる」と訴えられ、人類社会に貢献する人材を輩出したいと語られました。そして「もし私の代に完成しない場合には、私の遺志を継いで何十年かかろうとも、その実現をお願いしたい」と語られたのです。 私も参加しておりましたが、先生が語られた遠大な創価教育の未来像に会場から深い感動の拍手が送られました。 その後、市当局の方針が変わり、同地での建設は見送られましたが、関係者らが尽力する中、87年2月3日にロサンゼルス市近郊のカラバサスに、創価大学ロサンゼルス分校が開所。先生は同キャンパスを幾度も訪問され、学生を激励されるとともに、識者との会見を重ねられました。 ノーマン・カズンズ氏、ライナス・ポーリング博士、ローザ・パークス氏――いずれも、平和と人道のために生涯をささげられた方たちです。 ◆樺澤 95年にはカリフォルニア州オレンジ郡に、待望のアメリカ創価大学の建設が決定しました。 ◇原田 95年3月に開かれた、大学建設の認可を決定する郡の公聴会では、ローザ・パークス氏の代理人から開学を支援する書簡が朗読されました。 「池田博士は、平和と未来への展望の人であります」「創価大学は、“世界の平和”と“人類の繁栄”という私の信念を共有する大学です。そして、この大学の教育プログラムが、次の世紀にとって極めて重要なものであると、私は考えます」 公民権運動の闘士として戦ったパークス氏は、アメリカでは誰もが知っている“人権の母”といわれる女性です。そのパークス氏が、アメリカ創価大学の設立に、自ら尽力してくださったのです。 公聴会では満場一致で開発が許可されました。先生が結んだ識者との信頼の絆が、大学建設への扉を開いていったのです。 ◆林 そして、ついに2001年5月3日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが開学の日を迎えました。 ◇原田 世界中の全同志は、長年にわたって「2001年5月3日」を目指し、師弟の心で全ての活動に取り組んできました。その、あまりにも意義深き佳節に、世界に平和と文化の光を送りゆく「人間教育の最高学府」が誕生したのです。 ◆樺澤 創価三代の会長が築かれた創価教育の真価は、卒業生一人一人がその理念を胸に、今いる場所で活躍することにあると自覚しています。 ◇原田 先生は教育を「人生最後の事業」と定めて、創価教育の発展に尽くし抜いてこられました。そして、第3代会長就任以来、死身弘法の戦いの中、わずか60年で世界各地に教育機関を設立されたのです。その根本は、牧口先生、戸田先生の構想を実現しようとする、池田先生の弟子としての誓願にあったことは言うまでもありません。 先生は「人間は等しく幸福になる権利をもっている。それを実現するための価値創造の教育、人間主義の教育が創価教育である。ゆえに、一人ひとりが、その実現に生涯を傾けていってこそ、創価教育の結実がある」とつづられています。この思いを胸に、創価同窓の皆さんが世界の平和のため、人々の幸福のために尽くす人生を歩まれることを、期待してやみません。 (この項終わり) |