Ⅱ部 第10回 2020年06月25日 未来を照らす人間教育の光④ |
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 創立者との師弟の絆強き関西校 宝の学園生と生命の触れ合い ◆大串 1973年(昭和48年)には、大阪・交野市に創価女子学園(現在の関西創価中学・高校)が開校します。小説『新・人間革命』第17巻「希望」の章には、この時のことが詳しくつづられています。 ◇原田 池田先生が初めて交野を訪れたのは、57年4月16日です。この日、先生は友の激励のため、大阪中を駆け巡っていました。 後に「関西の共戦の友は、三世永遠の家族である。そのお子さんやお孫さんが胸を張って学びゆく理想の学園を、この佳き地につくりたいと、私は遠大な夢を、人知れず広げていたのである」と述懐されています。 この2カ月半後、学会という民衆勢力の台頭を妬む権力により、池田先生が不当逮捕される「大阪事件」が勃発します。先生は迫り来る権力の魔性との激闘の中、教育運動の未来を展望されていたのです。 先生は、「21世紀は女性の世紀である」との視点から、東京に男子校として創価学園の開校が決まった頃から、次は、創価女子学園を関西の地につくることを心に決めておられました。 69年5月には女子学園の候補地となっていた交野の用地を視察されています。周囲に自然が残り、野鳥の鳴き声が響く、素晴らしい場所でした。 先生は、女子学園の構想として、緑と水が豊かで風光明媚な所、という考えをお持ちでした。その構想に、交野はぴったりだったのです。未来の学園生のため、自ら足を運び、自らの目と耳で確かめて、建設の地を決めていかれたのです。 ◆林 73年4月11日に行われた入学式には先生が出席され、原点となる指針を示してくださいました。 ◇原田 あいさつの冒頭、「今朝、妻に『うちは男の子しかいないから、全員、娘にしたいな』って言ったら、妻も『そうしたいですね』って言うんですよ」と語られ、会場からは歓声が上がりました。先生と学園生の心の距離の近さを実感いたしました。 参加者の中には、このような光景に「心の交流というよりも、生命の触れ合いを見た感じです」と目頭を押さえながら語る人もいました。 さらに、この時、先生は「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」という信条を培うよう訴えられました。そして、「この心をもち、実践していったならば、まれにみる麗しい平和な学園が実現するでありましょう」と語られています。この言葉は、学園全体にとって永遠の指針となりました。 ◆大串 開校から30年を経た2003年には、この指針を刻んだ「平和教育原点の碑」が設置されました。 ◇原田 その通りです。第1回入学式の後には「卓球場開き」が行われました。先生は、式服から運動着に着替え、一緒に汗を流されました。生徒たちの「先生がんばって!」「ドンマイ、ドンマイ!」との掛け声にも全力で応えておられました。 「テニスコート開き」でも先生はラケットを握られ、ダブルスでは、私も先生のパートナーを務めさせていただきました。まさに体当たりで学園生と接する先生の姿、そして先生を求め抜く学園生の姿に深く感動したことを覚えています。終了後も先生はグラウンドの片隅に腰をおろし、生徒たちの状況に耳を傾けながら懇談されました。 同年5月にトインビー博士との対談などのためにヨーロッパに行かれた際も、女子学園のことを気に掛けていた先生は、訪れたパリでフランス人形を買い求め、帰国後、「園子」と名付けて、女子学園に贈られました。園子の名は女子学園生の愛称にもなりました。 ![]() 関西創価学園の「金星寮」を訪問後、学園生との懇親会でピアノ演奏をされる池田先生。師弟の曲“大楠公”をはじめ、皆の健康と成長へ祈りを込めて(1995年10月10日) 海外訪問の予定を変更して来校 ◆西方 その後も先生は激務の中、関西学園を何度も訪れ、生徒たちを直接、激励してくださいました。その一回、一回が学園生にとって宝の歴史です。 ◇原田 1975年4月のことです。この年、女子学園では中学1年から高校3年までがそろい、関西創価小学校の起工式も行われる予定でした。先生は、第3次訪中の直前でしたが、「何としても関西の学園生を励ましてあげたい」と日程を調整し、出発を当初の予定の羽田から大阪に変更されたのです。 4月12、13日と学園を訪問し、翌14日には訪中に出発されるという過密な日程でした。半年ぶりの学園訪問です。先生は、「大きくなったね」と一人一人を激励されていました。 9日に入学式は終わっていましたが、式が行われた体育館にも立ち寄られました。そこには、入学式当日の飾り付けが残されていて、大きな幕には3羽の白鳥と共に「良識・健康・希望」とのモットー等が描かれていました。ご覧になった先生は、すぐにこの幕を制作したメンバーを招き、激励してくださったのです。先生は常に“陰の人の苦労”に光を当て、たたえられます。この時も、どこまでも一人を大切にする人間教育の真髄を見る思いでした。 ◆西方 82年、東西の学園は男女共学になります。 2000年2月28日、先生は卒業予定の関西創価高校・中学・小学生と記念撮影、懇談もしてくださいました。私も当時、中学3年生でその場にいました。 ある女子生徒の「池田先生の夢は何ですか?」との質問に、先生は「夢を考える暇がないぐらい忙しいんだよ。世界中のことを考えているから」とユーモアを交えながらも、「私の夢は、戸田先生の夢を実現することです。戸田先生は、私の絶対の師匠です」と断言されました。真剣なまなざしで「師弟」を語られる先生のお姿は今も鮮明に覚えています。 ◇原田 前日、先生はアルゼンチンの国立ノルデステ大学から名誉博士号を受けられました。このことに触れながら、「私への栄誉については、私自身は『創価大学生、学園生が世界で活躍しているおかげである』と思っている」「皆さんが将来、名実ともに立派な博士となり、指導者になってもらいたい。それが最大の私の夢である」とも語られています。 また、1974年12月、中国で周恩来総理との会見後、宿舎に戻られた先生が「私には創大生、学園生がいる。20世紀後半には、必ず人材が陸続と出てくるんだ」と、誇らしげに語られていたことが、私は忘れられません。 先生の万感の期待を胸に人生を歩む創価同窓の皆さんは、どれだけ幸せでしょうか。 ![]() 諸君の成長の姿を見るとき、未来へ私の胸は躍ります――先生の後継者育成の舞台・関西校(1987年4月、池田先生撮影) 私の最大の夢は――「将来、皆が立派な博士、指導者に」 ◆樺澤 今の学生部にも、修学旅行での先生との出会いを生涯の原点としている関西創価小学校の出身者が多くいます。 ◇原田 05年9月16日には、創価大学の本部棟前で、修学旅行中の関西創価小学校6年生と出会いを刻んでくださいました。先生は児童たちの方へと歩み寄られ、「よく来たね!」「会えて、うれしい」「みんな優秀だ」と温かく声を掛けられ、その場にいた6年生110人全員と握手をされました。小柄な子には、「私もね、6年生の時は、小さかったんだ。同じだよ」と声を掛けられる一幕もありました。まさに一人一人を抱きかかえるように励ましてくださったのです。 また、07年には、先生は東京・信濃町で関西小の児童を迎えられました。 全員に言葉を掛けたあと、マイクをとり「みんな、どうもありがとう! この中から、ノーベル賞をとる人も出ます。必ず出ます。そうなるように、先生も祈るからね」と、呼び掛けられました。子どもたちも「池田先生、6年間ありがとうございます!」「立派な人材になります!」と感謝や決意の言葉を精いっぱい、先生に伝えました。子どもたちの心には一生の思い出が刻まれたことと思います。 ◆樺澤 15年度には関西創価高校、16年度には東京・創価高校が、文部科学省が国際的なリーダーの育成を支援する教育事業「スーパーグローバルハイスクール」の指定を受けました(関西校は昨年度で期間満了)。 ◇原田 両校共に“創造性豊かな世界市民の育成”との理念のもと、国際性豊かな人材の輩出に取り組んできました。今、その先見性ある教育方針と、確かな成果は教育関係者はじめ、各界から注目を集めています。 ◆林 昨年11月に関西校を訪問したイギリス・ケント大学名誉教授のヒュー・マイアル博士は「平和の心を世界に広げたいと学び、行動を起こす学園生の姿に、感銘を受けました」と語っていました。 ◇原田 ハーバード大学名誉教授のヌール・ヤーマン博士も「創価の学舎には、対話の気風があふれていました。対話が平和建設に不可欠であることは、歴史を見ても明らかです」と鋭く述べています。相次ぐ高い評価も、すべて、創立以来、池田先生が誰よりも学園の発展を願い、学園生のために尽くし抜いてくださったからなのです。 ![]() 「平和教育原点の碑」には開校時に示された指針が刻まれている |