Ⅱ部 第8回 2020年06月11日 未来を照らす人間教育の光② |
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 60カ国・地域、200超の大学と交流 「創造的世界市民」を育成 ◆樺澤 本年、創価大学は50期生を迎え、創価女子短期大学は開学35年となりました。創価大学は2014年に文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援」事業に採択され、「人間教育の世界的拠点の構築」へと着実に歩みを進めています。 ◇原田 創立から半世紀を経て、創大は大きく発展を遂げています。学術交流協定を結ぶ大学は世界60カ国・地域、200を超えています。 また、「創造的世界市民」の育成を目標にし、国連のSDGs(持続可能な開発目標)にも力を入れ、国内外の教育関係者から、大変高い評価を受けています。池田先生は常々、創大生に対して「みんなが創立者の自覚で道を開いていくんだ」と語られてきました。そうした伝統が実を結んでいると思います。 ![]() 開学から50年目を迎え、さらなる発展を遂げる創価大学のキャンパス。世界中から集った学生が、学問と人格錬磨の青春を送る 1期生の就活に創立者自ら奔走 ◆林 卒業生の社会での活躍も目覚ましいですね。教育の分野では、延べ約7700人の教員採用試験合格者を輩出しています。司法試験も、昨年、合格者10人以上の私立法科大学院で合格率は全国4位でした。 ◇原田 開学当時を考えると隔世の感があります。先生は、歴史ある他大学ではなく、あえて、ご自身が創立された新設の大学を選び、入学した創大生に対して、その進路にまで責任を持とうと決意されていました。 識者や財界人と会談される時にも、必ずといっていいほど創価大学のことを誠心誠意、語られていました。 1973年10月の第3回創大祭の折には約700人の企業のトップ、並びに就職関係者やマスコミの人たちを招き、体育館で祝賀会が行われました。この時、先生は“700人全員とお会いしよう”と、来賓一人一人と名刺を交換し「来年は、1期生の就職活動が始まります。初めてのことですので、ご指導、ご尽力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます」と深々と頭を下げられていました。そして、実際にほとんどの来賓とあいさつを交わされたのです。 ◆大串 先生が、ある来賓に「創大生は、私の命なんです」と語られたとも聞きました。 ◇原田 私も当時、同行させていただきましたが、10月の末で暑くはない時でしたが、先生の汗はワイシャツから、スーツの襟にまでにじんでいました。創大生の進路を、自ら開拓される先生の姿を目の当たりにして、“そこまでされるのか”と、申し訳ない思いと同時に、深く感動した覚えがあります。 祝賀会の後も卓球大会やテニス大会に出場され、軽音楽サークルのコンサート会場では、自らピアノで「荒城の月」「一高寮歌」を演奏してくださいました。まさにとどまることのない先生の激励行です。いつしか時間は午後10時をまわっていました。先生のお姿に触れ、創大生たちは、どれほど勇気づけられたことでしょうか。 ◆西方 73年は第1次オイルショックで日本は不況に陥り、就職難の時代を迎えました。 ◇原田 その中で、先生は就活中の創大生に対し、幾度となく激励、アドバイスをされました。その真心に奮起した学生は新設された大学の1期生としては、異例の数の大手企業の内定を勝ち取り、最終的な就職率は100%に達しました。池田先生の並々ならぬご決意と、お振る舞いが結実したのです。 ◆西方 先生は、創大の寮にも何度も足を運ばれ、寮生を激励されています。私も寮生時代、寮を訪問された先生から大激励していただいたことが、生涯の原点になっています。 ◇原田 開学から2年目の72年7月6日、雨が降る中、男子寮生が開催した「滝山祭」の折、先生は初めて「滝山寮」を訪問されました。部屋に入られると寮生のベッドに横になられるなどしながら、忌憚なく学生たちと語り合われました。 2カ月前の5月、先生はトインビー博士との1回目の対談のため、イギリスを訪問されています。その際、オックスフォード大学の寮にも行き、寮がその大学の歴史においてどれほど重要な意味を持っているのかを深く考えられていました。 先生は「オックスフォード大学の寮は、大変に質素だった。しかし、寮の学生たちは、ここから、たくさんの首相が出たと、胸を張って語っていた。そして、だから自分たちは世界一の学生であるという、強い誇りをもっていた。君たちも、二十一世紀を創造する、誉れ高き、選ばれた創価大学の寮生だという、強い、強い、誇りをもってほしい」と寮生たちに期待を寄せられました。こうした先生の万感の思いに応えるように、創大の寮からも多くの人材が巣立っていくことになります。 ![]() 創価大学で迎えた、国交正常化後初となる中国からの正式な留学生6人と和やかに懇談される創立者・池田先生。率先の行動で開いた教育交流の道が、両国友好の金の橋を架けた(1975年5月、創大で) 全員を大使だと思って――留学生に、直接大誠実の励まし ◆樺澤 75年4月、創価大学が中国からの正式な留学生を日本で初めて受け入れました。先生はこの6人の身元保証人でもありました。6人のうち、4人が滝山寮に入寮しました。 ◇原田 留学生が入寮する際も、先生は「私も行ってあげよう」と、入寮式に出席されました。その折、先生は水が注がれたコップを指さして「これは日本語で『みず』ですが、『おひや』とも言います。このように日本語には、いろんな言い方があります。覚えていってください」と言われ、さらに「私は江戸っ子なので“おしや”というふうになります」とジョークを交えながら、留学生に“日本語教育”をしてくださいました。 また、先生は、当時、学会の学生部長をしていた私に言われたことがあります。それは、留学生と同室の学生部員に対して「標準語で話すように」と伝えなさい、とのことでした。当時の創大の寮では関西弁を話す学生が多かったことを先生はよくご存じでした。その上で“必ずや将来、外交の大舞台で活躍するであろう留学生たちが日本の標準語を早く覚えられるように”と、配慮されたのです。 ◆林 この中国からの6人の留学生のうちの一人が、前駐日大使の程永華氏ですね。 ◇原田 中国の政府高官には、日本語に堪能でも公式発言は通訳に頼る人が多い。そうした中、程氏は自らきれいな日本語で語られることがしばしばでした。 先生は、たびたび留学生にポケットマネーでごちそうし、来学された際には一緒に卓球をされ、励ましてくださいました。また、「周桜」の植樹、両国の学生が共に開墾した農場への「日中友誼農場」の命名など本当に心を尽くされました。留学生の皆さんは、かけがえのない思い出ができたと思います。 ◆大串 当時、東西冷戦下でしたが、創大はソ連との教育交流も進めていましたね。 ◇原田 74年9月、先生がモスクワ大学の招へいでソ連を初訪問した折、先生の通訳をされていたのがモスクワ大学主任講師のストリジャックさんでした。日本語を学ぶ教え子の学生も手伝いに来てくれ、車や食事の手配、荷物の運搬など、さまざまに尽力してくれました。 先生は、その学生さんたちを大切にし、感謝と親しみを込めてニックネームを付けられたのです。車を手配するのは「運輸大臣」、食事の担当は「食糧大臣」というように。そういった交流が、2次、3次の訪問と積み重ねられていきました。 81年の第3次訪問の時、お手伝いをされていたメンバーの一人が、現在のガルージン駐日大使です。ガルージン氏は、翌年から創価大学に留学しました。「世界平和に尽くされる池田先生の姿が、私の外交官としての原点です」と語られています。 2008年2月、先生はロシアから「友好勲章」を受けられ、駐日大使館で叙勲式がありました。その時も、ガルージン氏は公使として赴任していました。大使の通訳を務めた方は、第1次の訪問時に先生が「官房長官」とニックネームを付けた学生の息子さんでした。 先生が架けられた両国の友好の橋が万代へとつながっていることを強く実感した出来事でした。なお、ガルージン氏の日本語も程氏に負けず劣らず素晴らしいものです。 ◆西方 イギリスの教育専門誌が発表する「THE世界大学ランキング 日本版2020」では、創大が「国際性」の分野で、昨年の16位から6位に飛躍しました。 ◇原田 先生は常々、「留学生を大使だと思って、誠意を尽くしていこう」と語られ、ご自身が直接励まされてきました。 現在、創大が世界に開かれた大学として目覚ましい評価を受けているのも、草創以来、先生が率先の行動で道を開いてくださったからこそです。後に続く創大生が、この大道を歩み続ける限り、創大は永遠に発展していくと確信します。 ![]() 池田先生から受けた真心の激励は今も胸から離れません――“母校”創価大学で講演するミハイル・ガルージン駐日ロシア大使(2019年12月2日) |