Ⅱ部 第7回 2020年06月08日 未来を照らす人間教育の光① |
〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長 世界の平和に寄与する大人材を――先師・恩師の夢 創価教育の城 ◆西方 今、海外にも創価の学びやは広がり、「創価の人間教育」の光が世界を照らす時代になりました。今回からは「教育」に焦点を当てていきたいと思います。 ◇原田 創価の教育機関の設立に関しては、1930年(昭和5年)11月18日に発刊された牧口先生の著書『創価教育学体系』の中に、明確な記述があります。創価大学については、「創価教育学を実現するに任するに足る高級なる教育技師(=教師)の養成を目的とする高等の師範学校」、そして「創価教育学の実験証明をなす目的の附属小学校」と、創価小学校などの教育構想が明記されているのです。 なお、この発刊の日が創価学会の創立記念日になっています。牧口先生はよく、「戸田君が必ず創価大学をつくってくれる」と語られていたそうです。創価教育の淵源の深さが伝わってきます。 ◆大串 その構想が、戸田先生から池田先生へと継承されていくのですね。 ◇原田 50年11月16日、戸田先生は、西神田の会社近くの大学の学生食堂で「大作、創価大学をつくろうな。私の健在のうちにできればいいが、だめかもしれない。そのときは大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」と語られます。戸田先生の事業が破綻し、非常に苦しい状況の時です。 この日、池田先生は日記に、こう記されました。 「昼、戸田先生と、日大の食堂にゆく。民族論、学会の将来、経済界の動向、大学設立のこと等の、指導を戴く。思い出の、一頁となる」 当時、池田先生は22歳です。この時のことを先生は何度も何度も教えてくださっています。池田先生は直接、牧口先生にお会いすることはありませんでした。しかし、池田先生は語られています。「戸田先生の姿を通して、偉大な初代会長を、私は深く強く知ることができた」と。 先生は、第3代会長就任後の60年10月、初めての世界広布の旅でアメリカ・ロサンゼルスのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)なども視察され、構内を歩きながら同行の方に「学会も、大学をつくるよ」と語られています。既に、大学設立を視野に入れていたのです。 ![]() 創価大学(第39回)・創価女子短期大学(第25回)の入学式後、学生に一礼をされる創立者・池田先生。この日、韓国海洋大学から先生に「碩座教授」称号が授与された(2009年4月2日、創大記念講堂で) 皆が、安心して勉学できるよう ◆樺澤 先生が大学の設立構想を、正式に発表されたのは、64年6月30日に行われた学生部総会の席上ですね。 ◇原田 そうです。「世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていきたい」――そう高らかに宣言される先生の姿に、学生部の一員としてその場にいた私も、“いよいよ先生は、大学をつくられるのか”と、大変に感動したことを今も鮮明に覚えています。 ◆西方 創価大学の開学へ準備が進む60年代末、日本社会では「大学紛争」が起こり、大学教育そのものの在り方が根本的に問われていました。 ◇原田 69年1月には、紛争が激化していた東京大学に、機動隊が突入するという事態になりました。その数日前の夕方に、先生は東大構内を視察され、学生が占拠する安田講堂のすぐ側まで直接、足を運ばれていました。先生は、混迷する事態を深く憂慮されていたと思います。 当初、創大の開学は73年を予定していましたが、先生は、一刻も早く皆が安心して勉学に励めるような大学をつくろうとされていました。また、68年に開校した創価高校の1期生がそのまま、創価大学に進学できるようにと、71年の設立へ舵を切られたのです。 ◆林 大学設立の地に東京・八王子を選ばれたのも戸田先生との師弟の語らいからですね。 ◇原田 54年9月4日、東京・氷川で水滸会の野外訓練が行われました。バスが信濃町の学会本部を出発し、甲州街道を走り、八王子を通り掛かった時のことです。戸田先生は、池田先生に「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな」と言われました。そして、戸田先生の構想通り、八王子に創価大学を設立されたのです。 ◆樺澤 設立を進めていた当時は、言論問題の嵐が吹き荒れる中でもありました。逆に開学を、少し延ばした方がよいのでは、という声もあったと聞きました。 ◇原田 先生は21世紀を展望し、日本のため、平和のため、人類のため、「大学革命」の旗手となる大学設立を真剣に考えられていました。 言論問題への対応を協議する合間にも「大学はどうだ? 順調か? 私の大切な大学を頼むよ」と何度も何度も確認されていました。 ![]() ![]() 創価大学に立つ一対のブロンズ像。台座には先生が学生に贈った指針が刻まれている 「何のため」との指針を忘れるな ◆西方 『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章に、全魂込めて「学生第一」の大学をつくろうと取り組まれていた模様が記されていますね。 ◇原田 この時期、先生は、ご自身が誰よりも原稿を書き、働きに働き、資金を捻出しようと、著作の印税等を設立の資金にあてられました。先生は生命を削るようにして大学を設立されたのです。これが創立者の心です。師匠の心です。そして、多くの学会員の方々が、庶民の真心の結晶である浄財を寄せてくださいました。こうして、できたのが創価大学なのです。先生は常々、創大は“大学に行けなかった人々の味方になって戦う、人間指導者を育成する”と言われていました。 これは、文系校舎A棟の前に立つ一対のブロンズ像の台座に刻まれた「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」との指針に通じています。先生は「開学に合わせて、大学の象徴になるようなものを寄贈したい」と考え、このブロンズ像を贈られました。作者はフランスの彫刻家アレクサンドル・ファルギエールで、その名前が道路に冠されるほどパリでは、高名な人物です。 ◆大串 設立の時、先生は開学式にも、入学式にも出席されませんでした。 ◇原田 先生には大学の運営は教職員が責任を持つべきであるとのお考えもあり、あえて出席されませんでした。しかし、先生を求めて創大に集った学生たちは非常にさびしい思いをして「何としても創立者を創価大学にお招きしよう」との声が日増しに大きくなっていきました。 開学した71年の8月、学生部の集いで一人の創大生が、先生に「お願いがあります。創価大学に来てください!」と言いました。先生が「何かあるのかい」と返すと、その学生は「大学祭をやります」と答えました。先生は「学生の皆さんの招待ならば、私は、必ず行きます!」と、語られたのです。実際には、その時、大学祭の開催は具体的に決まってはいませんでしたが、学生たちは、先生をお迎えするために懸命に準備に取り掛かりました。 ◆林 そして、その年の11月21日、第1回となる「創大祭」に先生が出席してくださったのですね。 ◇原田 先生は、記念行事で「私は、皆さん方に、偉大な人格をもつ人として、相対していきたい。皆さんは私よりも、何十倍、何百倍も偉い、無限の可能性を秘めた人格者であると、心の底から尊敬いたしております」とスピーチされました。ここに、師弟の原点が刻まれ、現在まで続く、創大祭の伝統が始まったのです。 ◆樺澤 私も、一人の卒業生として、創価の師弟の心を改めて胸に刻みます。 ◇原田 大学の正門と本部棟の正面には、「創價大學」の文字が掲げられていますが、これは牧口先生の筆によるものです。正門の門標の除幕式には池田先生も参加してくださいました。先生は後に、「この文字は、私が大切にとっておいたものである。牧口先生の夢、そして恩師の夢を実現できて、私はうれしい」と語られています。 この創価三代の師弟の心をわが心として学び、いよいよ創大出身者が社会のあらゆる分野で人間教育の実証を示していく時代に入ったのです。 ![]() 創価大学正門の門標には、牧口先生の筆による「創價大學」の金文字が |