Ⅱ部 第1回 2020年05月11日
地球を照らす創価の平和運動㊤

〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

思想・信教の自由を守る人権闘争
創価の正義と勝利の魂を継承

池田先生の会長就任以来60年にわたる闘争について、青年部各部の部長が原田会長に聞く連載の第Ⅱ部がスタートします。

先師・恩師の死身弘法が学会の原点
◆西方 今年はSGI(創価学会インタナショナル)の発足から45周年です。今回からは創価学会とSGIの平和運動について伺います。その源流は、第2次世界大戦中、軍部政府の弾圧に抗して、身命を賭して戦われた牧口先生、そして戸田先生の獄中闘争にあると思います。

◇原田 日蓮大聖人の仏法が、「絶対平和」主義の思想であることは言うまでもありません。立正安国論の「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31ページ)との御聖訓には、恒久平和、社会の安穏という日蓮仏法の根本目的が明確に示されていると思います。その大聖人の御精神を実践してきたのが創価学会です。
戦時中の国家神道による思想統制下にあって、宗門は軍部政府の弾圧を恐れ、「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と言い出しました。しかし、牧口先生はそれを断固として拒否されました。
宗門が保身のために神札を受け、大聖人の御精神に違背する一方、牧口・戸田両先生は正法正義を守り抜き、1943年(昭和18年)7月6日、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄されます。そして牧口先生は厳しい取り調べの中でも、最後まで仏法の正義を訴え抜かれ、翌年の11月18日に獄死されたのです。
◆樺澤 尋問調書には、牧口先生が獄中にあっても、大聖人の正義を堂々と叫ばれていたことが、厳然と残されています。

◇原田 この死身弘法の闘争こそが学会の原点であり、平和運動の源流にほかなりません。
国家権力による学会への弾圧という歴史を踏まえ、小説『新・人間革命』第30巻<下>「誓願」の章には、「思想・信教の自由は、本来、人間に等しく与えられた権利であり、この人権を守り貫くことこそ、平和の基である」とつづられています。
昨年11月で、牧口先生の殉教から満75年となりました。
池田先生はかつて、「(牧口)先生に呼び出された『地涌の菩薩』の陣列である我らは、この創価の正義と勝利の誇り高き魂の襷を、永久に受け継いでいくことを、ここに固く誓い合おうではありませんか!」と呼び掛けられています。
今再び私たちは、その決意も新たに前進してまいりたい。

横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の東日本体育大会「若人の祭典」に出席する戸田先生と池田先生(当時、青年部の室長)。この閉会式で戸田先生が、青年への「遺訓の第一」として「原水爆禁止宣言」を発表した(1957年9月8日)

「二度と同じ愚を繰り返すな」
◆樺澤 生きて牢獄を出られた戸田先生は、戦後の荒野に一人立ち、「平和」と「民衆の幸福」のために広布の戦いを開始されました。1952年2月には、「地球民族主義」を提唱。そして横浜・三ツ沢の競技場での「原水爆禁止宣言」は、生命尊厳の仏法の精神を世界に広げゆく青年への「遺訓の第一」となりました。

◇原田 「原水爆禁止宣言」が発表された57年9月8日、当時、高校生だった私も、その場に参加させていただきました。戸田先生の“師子吼”は、今も胸に刻まれています。
この宣言については、池田先生が小説『人間革命』第12巻「宣言」の章の中で、詳しくつづられています。
実は、「原水爆禁止宣言」に至るまで、戸田先生は世界の核軍拡競争を強く憂慮され、入念に思索を重ねられていました。
48年の東京裁判で、A級戦犯のうち東条英機ら7人が絞首刑の判決を受けた時には、「死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ」と述べられています。
55年秋には、第1回の大阪・堺支部総会で「核兵器全廃を訴えていくことが、唯一の被爆国たる日本の使命」と主張。翌56年には、週刊誌のインタビューで“怖いのは原子爆弾だ。ロシアにもアメリカにも、これを絶対、落とさせないというのが私の考え”と語られています。
さらに同年6月には、九州の会合に出席され、八幡市(現・北九州市)では「原爆などを使う人間は最大の悪人だ!」、福岡市では「二度と同じ愚を繰り返すな!」と叫ばれました。
そして、宣言の2カ月前となる7月には、雑誌での対談で「原子爆弾だけは許せん」と、重ねて強い憤りを表されていたのです。
その背景には、当時の米ソを中心とする核軍拡競争の激化があり、核保有を正当化する核抑止論が、それを支えていました。核抑止論というのは、核兵器を使用すれば、相手国も核兵器によって報復し、壊滅的な被害をもたらすので、使用を思いとどまる――つまり、恐怖によって平和が維持されるという“悪魔的思考”です。
また、イデオロギーに偏して、アメリカの原水爆は悪いが、ソ連の原水爆は良いとする主張もありました。
戸田先生は、そうした考え方を根本から打ち破り、“人間は等しく尊厳無比なる存在である”という仏法哲理に基づいたメッセージを表明しなければならないと、お考えになっていたのでしょう。それが、「原水爆禁止宣言」に結実し、核廃絶への道のりを、次代を担う青年に託されたのです。

宣言の草案が記された戸田先生のメモ。「原水爆を戦争の目的をもってこれを使用したものはその国の勝はいを問はずことごとく死けいに」と

◆大串 「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」――「原水爆禁止宣言」の中で、仏法の生命尊厳の哲理をもとに発せられた戸田先生の力強い叫びは、63年の時を経た今も、私たちの生命に深く響きます。

◇原田 戸田先生は宣言の中で「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」と断言されました。
無論、ここでいう「死刑」とは、制度としての「死刑」を肯定したことではありません。核兵器がそれほどまでに“絶対悪”であることを明確にし、強く警鐘を鳴らす意味で言われているのです。
そして宣言の結びには、“願わくは、きょうの私の第1回の声明を、全世界に広めてもらいたいことを切望する”と訴えられました。
戸田先生の宣言は、核兵器を生んだ「生命の魔性」という“見えざる敵”との妥協なき闘争宣言であったのです。
この時の池田先生の真情は、「宣言」の章の中でつづられています。
「彼は、この師の遺訓を、必ず果たさなければならないと、自らに言い聞かせた。そして、戸田の思想を、いかにして全世界に浸透させていくかを、彼は、この時から、真剣に模索し始めたのである」と。
戸田先生が、全人類の平和と幸福の実現を願い、訴えられた遺訓を、誰よりも真正面から受け止め、行動してこられたのが池田先生なのです。

◆西方 宣言の後、戸田先生のお体は目に見えて衰弱されていきました。それでも、宣言から2カ月後となる11月には、敢然と被爆地・広島への指導を断行しようとされます。

◇原田 出発前日、恩師のお体が衰弱されていたのをご存じの池田先生は、学会本部の応接間のソファに横たわっていた戸田先生に、必死に広島行きの中止を進言されます。戸田先生はゆっくり体を起こし、力を振り絞って語られました。
「御本尊様のお使いとして、一度、決めたことをやめられるか! 男子として、死んでも行く。これが、大作、真実の信心ではないか!」と。
しかし翌日、戸田先生の病状は歩行もできないほど悪化し、広島指導は断念せざるをえなくなりました。
池田先生は随筆につづられています。「生命を賭して、広島行きを望まれた、あの師の気迫は、生涯、わが胸から消えることはない。いな、それが、私の行動の原点になった」と。
この時から1カ月後、戸田先生の生涯の願業であった「75万世帯」の弘教が成就。翌年3月16日に、広宣流布の記念式典が行われ、恩師は池田先生に後事の一切を託され、4月2日に逝去されます。
そして、恩師の遺訓を受けた池田先生は、早くも会長就任5カ月後の60年10月2日から「世界広宣流布」即「世界平和」への旅を開始されるのです。

1973年から翌年夏にかけて集められた「核廃絶一千万署名簿」。75年1月、池田先生の手によって国連に提出された

求心力の中心が師弟不二の精神
◆林 今日の192カ国・地域に広がる創価の平和の連帯が、そこから始まったことを思うと、池田先生の不屈の闘争に感謝の思いは尽きません。

◇原田 先生は、72年11月の第35回本部総会の折、「人類の生存の権利を守る運動」を青年部に期待されました。翌73年の元日には、先生が各部の部長会に出席され、青年部の活動について協議をされます。
そこで、当時の男子部長が先生に、「『広布第二章』を迎えて、学会は社会に開かれた多角的な運動を展開していくことになりますが、その際、心すべきことはなんでしょうか」と質問します。すると先生は「師弟の道を歩めということです」と答えられ、次のように指導されました。
「仏法を社会に大きく開いた運動を展開するというのは、これは円運動でいえば遠心力だ。その遠心力が強くなればなるほど、仏法への強い求心力が必要になる。この求心力の中心こそが、師弟不二の精神だ」
先生は社会運動に取り組むといっても、その底流に脈打つ、牧口初代会長から始まる峻厳なる“広布の精神”“創価の魂”を断じて忘れてはいけないと、信心の基本を打ち込んでくださったのです。
その重要な指針を胸に、青年部は翌2月に「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。その中の一つが、「核兵器および一切の軍備を地球上から消滅させ、一切の戦争を廃絶する」ことでした。そのための運動の一つとして青年部が自発的に始めたのが、核廃絶のための署名運動です。

核兵器なき世界を青年の力で
◆西方 この頃から、世界の核開発競争は、ますます過熱化しようとしていました。74年には、インドが地下核実験に成功し、パキスタンも核開発中と伝えられていました。

◇原田 米ソの核の能力も年々増大し、地球そのものが“火薬庫化”しつつありました。
そうした中で、この署名運動が大きなうねりとなり、最終的に1000万以上もの賛同を得る、学会の平和運動としても時代を画した歴史的取り組みとなりました。
とはいえ、集まった署名をどうやって国連に届けるか、当時の青年部は頭を悩ませていました。すると、青年たちの運動を見守っていた先生が、その総仕上げとして、署名簿を国連訪問の折に提出してくださることになったのです。
当時、先生がその真情を語ってくださいました。
「弟子のやってきたことに、画竜に点睛を入れてあげたい。それが師匠の戦いである。署名簿の一部だけでも、私が直接、国連に届けてあげたい」と。
75年1月の国連訪問の際には私も同行させていただきましたが、先生は直接、国連事務総長に署名簿を手渡されました(10日)。それは、SGIが発足する直前のことです。師匠の弟子を思う慈愛に、当時の青年部の喜びは大きく、ただただ感動と感謝でいっぱいでした。
その後も、新時代の「平和社会」の構築へ、青年の挑戦は続いていくのです。