<出席者>西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
できるなら全員と握手して励ましたい
一枚の写真が無限の勇気と希望に
◆西方 世界は、新型コロナウイルスの感染拡大という未曽有の危機に襲われています。池田先生は4月2日付の「新時代を築く」で、「『変毒為薬』という希望と蘇生の哲理が、何ものにも負けない世界市民の不屈のネットワークを、いやまして強めゆくことを、私は願う」とつづられています。日本では9年前に東日本大震災(2011年<平成23年>3月11日)という大災害がありましたが、今もまた力を合わせて、試練に立ち向かう時だと思います。
◇原田 あの大震災の時、先生は“電光石火”で、お見舞いを伝えられました。「妙とは蘇生の義なり」(御書947ページ)との御聖訓を拝し、「今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出しながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」と、東北をはじめ全国の同志に呼び掛けられたのです。
直後の16日付の聖教新聞では、災害に遭っても「心を壊る能わず(=心は壊せない)」(同65ページ)と示されていることを通し、「『心の財』だけは絶対に壊されません」と最大の励ましを送ってくださいました。
当時、東京から宮城へは、線路も道路も空路も寸断されていました。私が17日に山形経由で現地に向かう旨を報告した際にも、「いかに深い悲しみや苦しみにあっても、絶対に負けない。妙法を唱え、妙法とともに生き抜く、わが生命それ自体が、金剛にして不壊の仏だからであります」とのメッセージを託してくださいました。
このメッセージを携え、仙台市の若林平和会館を訪れた折には、会員の方のみならず、町会長や婦人会長をはじめ近隣の町会の方も避難されていました。その中の多くの方々が、先生のメッセージや学会員の献身の行動に触れて感動し、理解を深めたという後日談もありました。
◆西方 被災地にある学会の会館は一時的な避難所として開放され、約5000人の方々を受け入れました。若林平和会館の模様は、米CNNテレビのニュースでも放映されました。自らが被災しながらも、地域の人のために尽くす学会員の姿は大きな共感を呼びました。
◇原田 25日の夜には、先生自ら韮沢東北長(当時)に直接電話をされ、「韮沢君、元気か」と声を掛けられ、「しっかり題目をあげて、東北に大勝利の歴史を残しなさい」と呼び掛けられました。先生の真心が、苦境の中で、どれほどの支えになったことか。皆が、「先生の言葉によって、『何としても乗り越えてみせる!』と前を向くことができました」と語っていました。
先生は、「最も大きな難を受けた東北が、最も勝ち栄えていくことこそが、広宣流布の総仕上げだ」と励まされました。その通りに東北の同志は頑張り、「未来までの物語」となる歴史を残されました。私たちも今こそ、不屈の信力と行力で立ち上がっていきたいと思います。
撮影会は師弟の無言の誓いの場
◆大串 女子部のお宅で、ご両親やご家族と、先生が、記念撮影をされている写真を目にする機会があります。先生がどれほど大勢の同志の方々に、勇気と希望を送ってくださっているのかと、いつも感動します。
◇原田 記念撮影会の淵源は、1965年(昭和40年)1月18日にさかのぼります。鳥取・米子での地区部長会に出席された先生は、記念の写真に納まり、170人の参加者全員と握手をされました。当時、私は聖教新聞社の職員になって1年目で、先生に随行した先輩の記者から握手の話を聞き、“先生は本当にすごい戦いをされている”と深く感動したことを鮮明に覚えています。
3月22日、宮城・仙台では600人ほどの参加者全員と握手をされました。小説『新・人間革命』(第10巻「言論城」の章)に当時のことが記されています。
――“皆の手は、仏の手”と確信し、握手を交わす彼の胸には、同志への尊敬と感謝の、熱い鼓動が脈打っていた。だが、伸一の手は、次第に赤く腫れ、痛み始めた。それでも彼は、毅然として、励ましの声をかけながら、握手を続けた――
8日後の30日に行われた長野本部の地区部長会の折も、先生の手の痛みは引いていませんでした。その時は、私も記者として取材に当たっていました。そこで先生は、握手に代わる激励方法として、記念撮影をしようと考えられたのです。
◆樺澤 「随筆」には、記念撮影を始めた理由を次のようにつづられています。「できうるならば、全国の地区の柱として立つ、壮年・婦人・男子・女子・学生の中心者の方々全員と握手をして、励ましたい。しかし、それは、時間的にも次第に困難になっていった。そこで智慧を絞り、せめてもの思いで発案したのが、記念撮影会であった」
◇原田 65年は、先生の会長就任5周年の節目でもありました。そこで、皆と共に新出発を期すため、4月16日の東京第1本部の地区部長会を皮切りに、本格的な記念撮影会が行われるようになったのです。
実は今回、これまで何人の方と先生が記念のカメラに納まったのかを、聖教新聞社のメンバーが可能な範囲で調べてくれました。
本社に保存されていた写真と記録を数えてみたところ、記念撮影会が始まった65年から73年までの8年3カ月だけで、少なくとも延べ71万8550人に及ぶことが分かりました。「数えるだけでも大変な時間と労力を要します。池田先生が一人一人を大切にされていることを感じ、心が震えました」と、調べたメンバーも語っていました。
この期間だけで「100万人以上に及ぶと思います」と言うかつての聖教記者もいます。
ともあれ、先生と写真に納まった一人一人にとっては、自身の信心の原点として、生涯残るものであり、その反響はとても大きなものがありました。
この記念撮影会について、日本写真家協会の会長を務められた三木淳氏の言葉が、『新・人間革命』(第15巻「開花」の章)につづられています。
――透徹した写真家の眼には、偽善か真心か、保身か献身かを、鋭く見抜く力がある。体当たりするかのように、会員のなかに入り、励ましを送り続ける伸一の姿に、三木は、慈悲という仏法の精神を見る思いがしたという。(中略)最高の宝でも披露するように、誇らしそうに笑みを浮かべ、以前に伸一と一緒に撮った写真を見せる会員もいた。困難に直面するたびに、その写真を取り出して眺め、自らを鼓舞し、苦境を乗り越えてきたという会員もいた。(中略)その彼(三木=編集部注)が、ある時、自身の思いを、率直に伸一にぶつけた。「先生! これから先も、ぜひ、会員の皆さんとの記念撮影を続けてください。その一枚の写真が、どれだけ皆に勇気を与え、希望をもたらしているか、計り知れません」――
三木氏は当時、写真集発刊のために、先生を追って、さまざまな会合に参加し、地方指導にも同行していたのです。
同じく当時、同行していた、ある全国紙の記者に、先生は「記念撮影は同志との無言の誓いですからね。いい加減な気持ちでは一緒に座れません」と言われ、「疲れませんか」との問いには、「後でクタクタになりますが、撮影中は真剣ですからね。疲れたなんていってられませんよ」とも答えられています。
記念撮影会は、先生と一人一人の同志との“無言の誓い”の場であり、“師弟共戦の旅立ち”の舞台となったのです。
月天子よ、我が友を見守りゆけ
◆林 4月2日付の本連載に、先生が撮影された創価宝光会館の写真(3月24日撮影)が掲載されました。先生が写真を撮り始められるようになった当時のことを教えてください。
◇原田 69年の暮れ頃から70年初頭にかけて、先生が体調を崩されていたことは、先日申し上げました。そんな時、ある企業の社長の方から、“お見舞いに”ということでカメラを頂いたのです。
71年6月に北海道の大沼に行かれ、湖畔を車で回っていた際、あまりにも月がきれいでしたので、そのカメラで写真を撮られました。そこが始まりです。
月の撮影というのは非常に難しく、少しでも手振れしてしまうと美しく撮れません。『新・人間革命』(第15巻「開花」の章)にも描かれていますが、車のエンジンを止め、聖教のカメラマンのアドバイスを受け、車の窓枠に両肘をつけながら固定をして撮影されたのです。さらに車から降りて、三脚を使っても撮られました。
その後、箱根研修所(現・神奈川研修道場)で嵐の翌日の月の写真を撮影されるなど、折あるごとに月を写され、その中から16枚を集めて、『写真集・月』を発刊されました。その写真集を、カメラをくださった社長に、「おかげさまで、このように元気になりました」と言いながら届けられたのです。
先生は初めて月を撮影された時の心情を、「“日夜、戦っている学会員の皆様が、この月の光に照らされ、英知輝く人になってほしい。名月天子よ、我が友を見守ってくれ”との願いを込めて、シャッターを切りました」と述べておられます。
また、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠まれた戸田先生に思いをはせてのことだとも思います。
池田先生は「写真は撮影者の心の投影であり、被写体を借りて写し出された、自身の生命の姿といってよい」と言われています。先生にとって、写真を撮影することは、同志への励まし以外の何ものでもないのです。
◆大串 先生は、雄大な空や、華やかに咲き競う季節の花々、さらに鉄塔の電線や石垣、道端の雑草や路面など、日常の風景も撮影されています。
◇原田 多くの人が見過ごしてしまうような路傍の花にも心をとどめ、被写体にし、その美しさや魅力を引き出そうとされています。そこには、仏法者としての先生ならではの視点があるように思います。
著名な写真家の吉田潤氏は、先生の写真を「寸写心眼」と評されました。「一寸の動きを写す心の眼」と表現されたのです。
フランスの美術史家のルネ・ユイグ氏は、「こんなに芸術的な写真は初めて見た」と言われ、自身が館長を務める、パリのジャックマール・アンドレ美術館で写真展を開催しました。先生の写真展が海外で開かれたのは、これが初めてでした。
学会の会館には今、先生が撮られた写真が額装して飾られています。学会の会館は、平和と文化を発信する地でもあります。そこで皆さまからの要望もあり、先生の許可を得て、写真を飾っているのです。
現在、聖教新聞では「四季の励まし」が連載されています。先生は今もカメラを通し、多くの人に語り掛け、勇気と希望を送ってくださっているのです。
(第1部終了)

写真を撮影される池田先生。その体を支える香峯子夫人。先生の写真は「眼で詠まれた詩」と評される(2000年2月、香港で)

池田先生は語られている。“桜の生命は強い。だから美しい。人間もまた同じである。一番強く生きた人が、一番幸福なのである”と(3月25日、都内で池田先生が撮影)
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