〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
障魔との戦いの中、全同志に勇気を!
師弟の道の「真実」を描く
◆西方 1977年(昭和52年)ごろから宗門僧による学会攻撃が始まり、第1次宗門事件が起こりました。79年、池田先生は会員を守るために、法華講総講頭を、さらに、第3代会長を辞任されます。その後、宗門と退転者らの謀略により、先生のことが聖教新聞で報じられなくなり、小説『人間革命』も、78年8月まで第10巻「展望」の章が連載された後、休載していました。
◇原田 先生と学会員との師弟の絆の分断を企んだ宗門側は、学会に対し、“名誉会長は会合で指導してはいけない”“聖教新聞等でも指導を報道してはいけない”などと理不尽な要求をしてきました。そして、池田先生の指導や動向が報道されない事態になったのです。ただし、海外の要人との会見報道までは、禁ずることはできませんでした。先生は、SGI会長として海外に行かれ、平和のために果敢な行動を開始されました。それが、聖教新聞に報道され、全同志に勇気を送ることになったのです。
80年4月29日、5度目の訪問となった中国から、先生は長崎空港に降り立たれます。当時の状況は『新・人間革命』第30巻〈上〉「雄飛」の章にも詳しく描かれています。帰国を報じる翌日の聖教新聞1面には「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と記されています。
名誉会長としての先生の動き、しかも、予定の記事が掲載されることは会長辞任以降、なかったことでした。全国の会員の皆さんは、この記事に驚くとともに、歓喜と感動が爆発しました。
そして、長崎支部結成22周年の記念幹部会、さらに福岡での指導を経て、関西、中部で勤行会等に出席。その様子が聖教新聞に掲載されました。まさに、長崎に降り立った時から、先生の「反転攻勢の助走」が始まったのです。
◆林 この80年、先生は9月末からアメリカを訪問し、10月17日には歴史的な第1回SGI総会に出席されています。翌81年には、アメリカをはじめ、4度にわたって海外を訪問されています。
◇原田 先生は、訪問する先々で現地のメンバーを全力で励まされました。それは、海外から日本の同志に対して、日蓮大聖人の仏法こそが真に人々の幸福を確立し、社会の平和を築く大法であることや、広布に生き抜く創価の同志の使命の重大さを、発信し続ける戦いでした。
実際、この頃、聖教新聞にはSGI会長としての先生の指導が連日のように、報道されています。
「私が指揮執る」と反転攻勢を宣言
◆樺澤 アメリカを訪問されていた、81年の1月24日、弁護士であった反逆者の山崎正友が、学会への恐喝及び恐喝未遂の容疑で逮捕されました(91年に懲役3年の実刑が確定)。
◇原田 この時、東京地検から事情聴取の要請があり、急遽、先生は一時、帰国されることになりました。
「どうしても帰らなければならなくなってしまいました」「スーパーマンは正義のために一度日本に帰るけど、また再び戻ってきます」と、ユーモアを交えてアメリカの同志に説明されました。
翌2月、アメリカに戻った先生は、北・中米へ。5月からはソ連(現ロシア)、ヨーロッパ、北米と、およそ半年で世界一周ともいえる平和旅を敢行されました。
10月31日、創価大学で先生は「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題する講演をされ、「迫害こそ、むしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます」と宣言されたのです。私たちは、この講演を今再び、深く胸に刻んでいきたい。
そして、11月9日には四国指導を開始されます。
四国研修道場で行われた「香川の日」記念幹部会に出席した先生は「もう一度、指揮を執らせていただきます! これ以上、ご心配、ご苦労をおかけしたくない。私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」と、集った同志に呼び掛けられたのです。この時に、青年と共に作られたのが「紅の歌」です。
“私が指揮を執る”と宣言された四国の地から、先生の「本格的な反転大攻勢」が開始されたのです。
12月8日には第1次宗門事件の影響で嵐が吹き荒れていた大分を訪問し、同志を全魂込めて激励されます。10日夜、大分の地で、後継の若人に対して長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表。この長編詩は、後に曲が付けられ、今では国内はもとより、世界中で歌われています。

一人一人と結んだ師弟の絆は、いかなる邪悪をも打ち破る――1981年11月の四国指導から本格的な反転攻勢の幕を開いた池田先生。新時代を告げる暁鐘が、高らかに鳴り響いた(同月13日、四国研修道場で)
暗闇を打ち破る「人間革命」連載
◆西方 80年7月、先生は約2年間休載されていた『人間革命』第11巻の執筆を「転機」の章から開始されます。
◇原田 当時、ようやく聖教に先生の行動が報道されていましたが、『人間革命』の連載が途切れて久しく、多くの会員から「先生の指導が掲載されない日はさびしい」という声が寄せられていた時期でした。そうしたことを聞かれた先生は「いよいよ書き始めよう」と、ご決断されたのです。
連載を再開すれば、宗門側から攻撃されることは明らかな状況でした。憂慮する記者に対して先生は、「そんな非難は、私が一身に受ければよい。私の身がどうなろうが、大切なのは学会員だ。苦しんでいる学会員を、どうやって励ましていくべきか。それが根本ではないか!」と、すさまじい気迫で語られました。
いよいよ『人間革命』の執筆を通して一人一人を励ましていこう、広布の新しい上げ潮をつくっていこうという、強いご決意であったと思います。
さらに、「転機」の章は週3回の連載でしたが、連日の掲載を希望する声が相次ぎ寄せられ、続く「波瀾」の章からは、毎日の掲載となりました。
当時の会員にとって、連載が再開されたこと、そして怒濤の勢いで執筆されたことが、どれほど大きな喜びになったか、はかり知れません。まさに、会長辞任からの暗闇のような期間を打ち破り、太陽の光が差すようでした。
◆西方 「波瀾」の章、「夕張」の章とつづられ、連載は80年11月まで続きます。その後、第2次宗門事件の渦中である91年(平成3年)5月3日、第11巻「大阪」の章から、完結へ向かって連載が再開されます。
◇原田 その前年(90年)に宗門は、嫉妬に狂った日顕らが「C作戦」の謀略を企て、12月には先生を法華講総講頭から罷免しました。第2次宗門事件の勃発です。
そうした中で、先生は「いよいよもう一度、『人間革命』を執筆し、一番重要なところを書いていこう」と、およそ10年半ぶりに「大阪」の章から再び、連載を始められます。第1次宗門事件の時と同様、嵐の中での再開となりました。同章では、57年の「大阪事件」という、創価の師弟が権力の魔性との戦いに立ち向かう場面に踏み込まれていきました。
「大阪」の章には、夕張に向かう前の、戸田先生と山本伸一の語らいが回想として描かれています。
そこでは、戦時中、牧口先生が神札を受けることを拒否したことについて、戸田先生の言葉がつづられています。「(牧口)先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これは、どうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体であるゆえんもここにある」と。
また、同章では御書の「三沢抄」を通して、「第六天の魔王」の本質について戸田先生が語る場面が描かれています。
「最後は、第六天の魔王が、『権力者の身に入って、迫害を加え、信心をやめさせ、広宣流布の流れを閉ざしてみせる』と豪語しているんだよ」との恩師の言葉に託して、池田先生は、邪宗門からの迫害に立ち向かう同志を鼓舞してくださったのです。
「生命の讃歌」を呼び起こす一書
◆大串 93年2月11日にブラジルの地で『人間革命』全12巻の完結を迎えてから、わずか半年後、先生は『新・人間革命』の執筆を長野で開始されます。
◇原田 その頃、先生は「今、私の頭は冴えわたっている。次から次へ満天の星の如く、さまざまな構想が浮かんでくる。だから『新・人間革命』も書くよ」と言われていました。こうして、8月6日に執筆を開始されたのです。
「限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」と『新・人間革命』第1巻の「はじめに」につづられた通り、新たな時代を開くべく、先生ご自身が戦いを開始されました。執筆開始を発表された時点で、完結まで30巻を予定していることを述べられています。
それから25年、先生は三類の強敵と戦い抜かれ、世界広布の指揮を執られながら、全30巻を書き切ってくださいました。
まさに「『新・人間革命』の執筆をわが生涯の仕事と定め、後世のために、金剛なる師弟の道の『真実』を、そして、日蓮大聖人の仰せのままに『世界広宣流布』の理想に突き進む尊き仏子が織りなす栄光の大絵巻を、力の限り書きつづってゆく」との、ご決意のままの行動を貫かれたのです。弟子として、こんなにありがたいことはありません。
今、世界中の同志が『人間革命』『新・人間革命』を研さんし、師弟の精神を学び、そして実践しています。私も、世界各国を訪れるたびに、小説を学んだメンバーが先生の心に触れ、人生の蘇生劇を演じる姿に出会います。先生は、そうした青年たちの頼もしい活躍と成長の姿を最大に喜ばれ、励ましを送り続けてくださっています。
世界の識者もまた、『新・人間革命』を学び、創価の人間主義の思想、人類を結ぶ民衆運動の歴史を学んでいます。賛嘆する声も世界中から寄せられています。
インドを代表する仏教学者ロケッシュ・チャンドラ博士は「『新・人間革命』は、『価値創造の人生』へ、魂の翼を広げることを促す『目覚めの一書』です。池田先生は人類の精神に、生命の讃歌を呼び起こしているのです」と述べています。
先生が、私たちのために命懸けの言論闘争で書きつづってくださった“師弟の一書”を学び抜き、共々に広布にまい進してまいりましょう。

学会歌「青年よ広布の山を登れ」を合唱する中等部の代表。広布に生き抜く誓いを込めて、同曲は世界中で歌い継がれている(本年1月、本部幹部会で)
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