第4回 正義と励ましの言論闘争㊥
2020年4月2日

〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長

恩師の遺訓「追撃の手をゆるめるな!」
広布を阻む悪とは断じて戦う

◆樺澤 前回、小説『人間革命』第6巻「七百年祭」の章が執筆された当時の様子を伺いました。この章には、いわゆる「狸祭り事件」がつづられています。戦時中、神本仏迹論(注)の邪義を唱えた小笠原慈聞という悪侶を、青年部が糾弾したことから起きる、宗門の暴挙の歴史です。

◇原田 それは1952年(昭和27年)4月、日蓮大聖人の宗旨建立七百年慶祝記念大法会の折の出来事です。当時、僧籍を剝奪されているはずの小笠原を27日、学会の青年たちが総本山で発見しました。
小笠原は戦時中、「国家神道」を精神の支柱にして、戦争を遂行するために思想統制を図る軍部政府に、保身のために迎合し、大聖人の正法正義を踏みにじった悪僧です。この動きが遠因となって、軍部政府による学会への弾圧が起こり、牧口先生の獄死へとつながっていくのです。
青年たちは、この悪僧を牧口先生の墓前に連れて行き、神本仏迹論の誤りを認めるように迫りました。
実は宗門は、破門にされていた小笠原を46年3月に僧籍復帰させていました。法を根本から歪める邪義を不問に付していたのです。しかし学会には、“宗門にそんな僧侶はいない”と隠していました。
責任を回避したい宗門は、青年たちが小笠原を糾弾したことに対し、宗会を開き、戸田先生が小笠原に“加害暴行”し、登山した檀信徒に信仰的動揺を与えたとして、「開山以来、未曾有の不祥事」と断じ、あろうことか、「謝罪文の提出」「大講頭の罷免」「登山停止」という処分を決議したのです。
しかも宗門は、この出来事が起こると、52年4月5日に小笠原の僧籍復帰を認めたばかりだと言い出し、“僧侶に信徒が暴行を振るった”という構図を作り上げようとしました。

◆樺澤 宗門が、いかに狡猾で卑劣かを物語っていますね。

◇原田 この時、池田先生をはじめとした青年部が、「宗会の決議取り消しを要求する!」「断じて戸田先生を守れ!」と立ち上がりました。
宗会議員一人一人と会って、事件の経緯と真実を語り、決議の理不尽さを訴え、撤回を求めていったのです。
池田先生は、胸に憤怒の火を燃え盛らせながら、礼を尽くして対話をされました。『新・人間革命』第30巻「大山」の章には、“宗会は、戸田先生の大講頭罷免や登山停止など、お一人だけを処分するつもりだ。これは、会長である先生と会員との分断策だ。戸田先生なくして、いったい誰が広宣流布を進めるのだ! 何があろうが、私たちが戸田先生をお守りする。正義を貫かれた、なんの罪もない先生を処分などさせるものか!”との真情が描かれています。
青年部の道理を尽くした真摯な説得の結果、宗会議員の多くは考えを改め、戸田先生を処分するという決議の撤回に同意します。また、時の法主も、この宗会決議を採用しませんでした。
学会は、この小笠原事件を乗り越え、師弟の魂の結合を一段と強くし、戸田先生の悲願である会員75万世帯の達成へ、雄々しく飛翔していきます。
池田先生は、『新・人間革命』第27巻「正義」の章で、この小笠原事件を振り返られながら、「『破邪』なくして『顕正』はない。いや、『破邪』なきは、結果的に『邪悪』への加担となり、同罪となることを知らねばなるまい」と教えてくださっています。

◆西方 戸田先生は「創価学会の歴史と確信」(51年夏)をはじめ、折々の指導で、腐敗、堕落した宗門の体質を痛烈に破折されています。特に聖教新聞の「寸鉄」欄では、厳しく指弾しています。

◇原田 52年7月10日、小笠原事件の渦中には、次のような「寸鉄」があります。
○如説修行抄に仰せあり
『真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり、されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし』。三類の悪人の仕業の中に『遠離塔寺』と言って寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
さて、我等が会長に折伏の大将としての一大名誉を贈ったのさ、『遠離塔寺』と云う仏様からの勲章なんだ。
○寸鉄居士ニヤリとして曰く 宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ。
戸田先生が、宗門の本質を鋭く見抜き、いかに厳しく破折されたかがよく分かります。
<注>神本仏迹論
仏と神の関係について、神が本地で、仏は神の垂迹(仮の姿)であるとする説。元来の「本地垂迹説」では、神の本地は仏であり、この世を救うために、仮に神の姿を現じた(仏本神迹)とする。“仏が主、神が従”こそ仏教の考え方である。これに対し、神本仏迹論は、あえて神道の論理にすり寄り、一切の宗教を国家神道のもとに統一しようとした軍部権力に屈服する邪説であった。
本部を後回しで宗門外護の赤誠
◆大串 戸田先生と学会は、大変な苦労をしながら、宗門外護に尽くされたのですね。

◇原田 私自身、決して忘れられないのが、かつて池田先生に教えていただいた、学会本部を巡る歴史です。実は学会は、本部建設のために購入した土地を売り払ってまで宗門に供養していたのです。
詳しく申し上げますと、戸田先生が学会再建に着手した当時から、東京・西神田にあった戸田先生の会社の2階を本部として使ってきました。しかし、西神田の本部は、使える部屋は2間しかなく、あまりに狭く、会合や指導を求めてやって来た人たちが、外にまであふれることが少なくありませんでした。
そんな中、学会本部の建設が決まり、52年6月20日付の聖教新聞に、「学会本部建設決定」との見出しが掲げられたのです。同年12月20日付の新聞では、「本部建設用地決まる」として、新宿区信濃町25番地に、425坪(1坪=約3・3平方メートル)の敷地を購入したことが写真付きで報じられています。
ところが戸田先生は、長年の風雪に傷み、修復が急務であると、総本山の五重塔の整備を申し出ます。つまり、学会本部建設より宗門の外護を優先したのです。そのため、購入した25番地の土地も売却しました。
学会は、その後、当初の土地面積の半分近くの古い洋館を購入します(53年9月20日付の聖教新聞で報道)。ここが、現在の本部がある信濃町32番地で、この洋館を改築し、当初の予定より大幅に遅れて、53年11月に本部が誕生するのです。
このほか、末寺の建立にも全力を挙げていました。53年4月10日付の聖教新聞には、「学会本部も建てなきゃならんが、学会の事は後回しにして御奉公したい。どうか又御苦労であるが一骨折ってくださる様御願いします」との戸田先生の談話が発表されています。学会を挙げて、それこそ“財布の底をはたいて”まで、宗門興隆のために供養したのです。しかし、その赤誠も分からない体質が、宗門には昔からありました。
戸田先生が、どれほどの思いで、本山の復興に尽くされ、それを池田先生が陰で支えてこられたか。そうした歴史を語られる時の先生の真剣な眼差しは、今も脳裏に焼き付いています。
そして、池田先生の時代には、正本堂をはじめ全国に300を超える寺院を建立・寄進するなど、計り知れない供養をし、宗門を外護されてきました。そのおかげで宗門は、仏法史上、未曽有の大興隆を遂げたのです。それにもかかわらず、大恩ある学会、池田先生に対し、宗門は、供養を取るだけ取ったら、冷酷に切り捨ててきた。それは、大聖人の御遺命の広宣流布の破壊であり、破和合僧の大謗法です。ゆえに宗門は衰亡したのです。
なお、最初に学会本部を建設する予定だった土地の近接地にあるのが、現在の「世界青年会館」です。そして同じ番地の場所に、「創価宝光会館」が完成します。学会創立90周年という節目に、これまでの接遇センターに代わる施設として、全世界から創価の宝友が集い、福徳あふれる所願満足の人生に向けて出発する会館です。

完成間近の「創価宝光会館」(東京・信濃町)。かつて同じ番地の場所に、学会本部が建設される予定だった。創立90周年という佳節に、世界中の友を迎える創価の宝城が誕生(3月24日、車中から池田先生が撮影)

弟子の誓い確認する「4・2」に
◆林 『人間革命』第12巻「寂光」の章には、戸田先生が逝去の直前まで、宗門の実態を憂い、池田先生に語られる場面が描かれています。

◇原田 あの「3・16」の式典と時を同じくして、後の宗門事件を彷彿させる暴力事件が勃発しました。
3月も末に迫ったある日、朝から酒に酔った所化頭が、勤行後に所化を怒鳴りつけ、頭に鈴を被せ、その上から鈴棒で殴ったのです。所化頭の所化いじめは、たびたび目撃されていました。また、学会員を見下す言動も目に余るものがありました。
これに対し、当時、登山会の一切の責任を担われていた池田先生が所化頭に、僧侶にあるまじき言動を改めるよう、真心を尽くして話されました。
3月29日の朝、事件の報告を池田先生から受けた戸田先生の様子が、『人間革命』に次の通りに記されています。
――戸田は、軽く目を閉じて伸一の報告を聞いていたが、聞き終わると、さも残念そうな表情で語り始めた。「情けないことだな……。これは、小さな事のようだが、……宗門の腐敗、堕落という、実に大きな問題をはらんでいるのだ。なぜ、堕落が始まり、腐敗していくのか……。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを、忘れているからだ」(中略)
「……衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれば、学会を切り捨てようとするにちがいない……」(中略)「しかし……、日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない」
そして、戸田は、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」――
これが、戸田先生の最後の指導であり、愛弟子である池田先生への遺言となったのです。池田先生は、その言々句々を生命に焼き付けられ、「先生のお言葉、決して、忘れはいたしません」と誓われます。
それから4日後の4月2日、戸田先生は安祥として霊山へと旅立たれます。
今年も、4月2日を迎えました。「宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え」「追撃の手をゆるめるな!」――私たちは、広宣流布に生涯を捧げた戸田先生の、池田先生に対する遺訓を命に刻んで進んでいきたい。

桜花の4月2日。恩師を思い、弟子の道を貫く池田先生(作・間瀬健治)