〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
“この人と会えるのは今しかない”――
「一人」への信義が 崩れぬ友情に
◆大串 池田先生はこれまで10度訪中され、日中に友好の「金の橋」を築いてこられました。原田会長も同行された初訪中(1974年<昭和49年>5、6月)では、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州と移動し、大変なハードスケジュールでした。そうした中、北京で小さな女の子に、「おじさんは、どこから来たのですか」と問われた先生が、「日本から来ました。あなたに会うために来ました」と答えられた話は、強く印象に残っています。
◇原田 初訪中の際、先生は要人はもとより、道行く少年であれ、労働者の壮年であれ、一人の人間として真心で激励され、友情を結んでおられました。
私は思わず、「先生は、いつ、どこにあっても、相手の心を的確に捉えた、励ましの言葉を掛けられますが、その秘訣はなんなのでしょうか」と、お伺いせずにはいられませんでした。
これに対し、「秘訣などあるわけがない。私は真剣なんだ。この人と会えるのは今しかない。その中で、どうすれば心を結び合えるかを考え、神経を研ぎ澄まし、生命を削っているのだ。その真剣さこそが、智慧となり、力となるんだよ!」と教えてくださいました。実践の中で学んだ指導は私にとって、大事な教訓になっています。
◆西方 先生はまた、周恩来総理、鄧小平副総理、江沢民国家主席、胡錦濤国家主席と4世代にわたる中国の指導者と交流を深めてこられました。原田会長が特に印象に残っているシーンはありますか。
◇原田 1985年3月、胡錦濤氏が中国青年代表団を率いて、初めて日本に来られた時のことです。胡錦濤氏が団長で、李克強・現首相が副団長でした。
先生はこの時、2月末から九州指導を行っていました。しかし、大事な未来の指導者が来日されると聞き、予定を変更して東京に戻り、会見されたのです。
そのことを聞かれた胡錦濤氏らは非常に感動されていました。その後、胡錦濤氏が国家副主席になったばかりの98年(平成10年)や国家主席として来日した2008年の会見の際も、その話が話題になりました。18年、来日中の李克強首相とお会いした際、先生からの漢詩をお渡ししました。大変に喜ばれた首相から「金の橋は永遠に堅固にして(池田先生の)風格は永久に不滅である」(大意)との返書が届けられました。
国交正常化後、中国から初の国費留学生を、日本の大学の中で最初に創大に受け入れた際(1975年)も、先生は自らが身元保証人になりました。
中国が天安門事件等で国際的孤立を深めていた頃には、あえて約300人の大交流団を結成し、訪中されました(90年)。
初訪中の際、先生は中日友好協会の廖承志会長に「もし、お国が大変な時は、遠慮なく創価学会にSOSを発信してください。たとえ1000年先、1万年先でも応援に来ます」と語られました。先生は、その約束を果たし続けてこられたのです。
この1990年の訪問の際、周総理夫人の鄧穎超氏は、周総理の形見の象牙のペーパーナイフと、鄧氏が愛用された玉製の筆立てを「どうしても受け取ってほしい」と先生に贈られました。どれほど、深く先生を信頼されていたかがうかがえます。
先生は一貫して、「一人」への誠実な行動に徹してこられました。何があっても、信義の道を貫かれました。そして、未来のため、青年との交流を大切にされたのです。だからこそ、崩れざる友情が築かれたのです。学会に対する中国の信頼は、池田先生に対する信頼そのものであると強く実感しています。
◆林 キューバのフィデル・カストロ議長と先生が会談された時の話も、深く心に残っています。
◇原田 あの時、カストロ議長は、普段の軍服ではなく、スーツ姿で池田先生を迎えてくれました(96年6月)。「国内の公式行事で軍服をぬいだのは、革命以来、初めて」(当時のロイター電)と報じられるほどで、皆が大変に驚きました。
会見は大いに盛り上がり、30分程度の予定が1時間半程に延びたのです。話は「後継者論」などにおよび、先生は「大事なのは第2代であり、なかんずく第3代です。3代まで固めれば、恒久性ができます。後は、ずっと続いていきます」と言われていました。
また、「周囲に苦言を呈する人がいた方がよい」などの「指導者論」も展開されました。
実は会談の後、食事が用意されたレセプション会場に移ったのですが、ここでもお二人は、片隅に椅子を持ち込んで会談を続け、非常に打ち解けて語り合われていました。
先生が帰国された後、キューバで行われた「日本美術の名宝展」(東京富士美術館所蔵)へ8月に赴いた議長は、先生宛てにメッセージを託されました。それは「私は“革命家”であります。息を引き取る最後の瞬間まで、キューバ人民の尊厳と、キューバ共和国の主権のために戦い続けます」「池田会長も“革命家”であり、日々、民衆の尊厳のために戦っておられます。そのために、どのような目に遭おうとも戦っておられます」という内容のものでした。
あれから二十数年。キューバでは今、メンバーがはつらつと平和と文化と教育の運動を進め、活躍しています。

共に人民のために――初対面ながら、深く心が通い合う語らいとなった池田先生とキューバのカストロ議長(1996年6月、ハバナの革命宮殿で)
戸田先生のこと 語らぬ日はない
◆西方 ブラジルについても伺います。74年3月、先生の訪問が直前で中止になるなどの苦難の歴史もありましたが、その後、84年に訪問が実現し、ブラジルは大発展を遂げています。
◇原田 ブラジルの事情について、簡単に確認しますと、第1次(60年10月)を経た第2次(66年3月)の際は、厳しい官憲の監視のもとで、訪問を進めざるを得ない状況でした。
この時、メンバーは約8000世帯に躍進していましたが、64年に発足した軍事政権のもと、政治警察が強権を振るっていました。偏見に満ちたマスコミや、学会に敵意を抱く日系人の他宗有力者が、“宗教を偽装した政治団体”“共産主義者とつながっている危険な団体”等と吹聴し、当局がずっと監視していたのです。
74年の際も、その状況は変わらず、ビザの申請をしても日本のブラジル総領事館から許可されることはありませんでした。
日本をたつ時、「必ず取れます」と申し上げ、訪問先のアメリカでも、ぎりぎりまで努力しましたが却下されました。そうした中で、最終的にブラジル訪問を断念せざるを得なくなってしまったのです。
小説『新・人間革命』第11巻「暁光」の章でも描かれていますが、滞在先のアメリカからブラジルに電話をして、サイトウ理事長(当時)に訪問中止を伝えたのは私でした。用件を伝え終えると、先生はすぐさま受話器を受け取り、こう言われます。
「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう……。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ。勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある」「ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」「長い目で見れば、苦労したところ、呻吟したところは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。今回は、だめでも、いつか、必ず、私は激励に行くからね」と。
この出来事については、先生とブラジルの同志に残念な思いをさせてしまい、私としては慚愧に堪えない思いでした。
メンバーはそれ以降、断じて先生のブラジル訪問を実現しようと奮闘しました。先生の指導通り、「よき市民」「よき国民」として、地域のため、社会のために献身してきたのです。そして、10年後の84年2月、フィゲイレド大統領の招聘で18年ぶり3度目の訪問が実現します。
今年2月には、ブラジルSGIのイケダヒューマニズム交響楽団が、ブラジルの日系5団体が開催する「天皇陛下誕生日祝賀会」に要請され、記念コンサートを行いました。その様子を収めた動画を聖教ムービーで見ましたが、心から感動しました。
この会場は、軍事政権の監視の中で行われた南米文化祭(66年)で、先生がブラジルの同志を大激励した場所と同じでした。
あれから五十余年。今やブラジルSGIは、各界から絶大な信頼を勝ち得て、社会でなくてはならない存在として輝いています。
◆樺澤 4度目となった93年2月の訪問の折には、「世界人権宣言」の起草に尽力した、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁との歴史的な出会いもありましたね。
◇原田 戸田先生に対する池田先生の「師弟不二」のあり方を、あらゆる時に教わってきましたが、ブラジル訪問でも、池田先生は、「私は、体のどこを押しても、戸田先生の指導が出てくるんだ。一年365日、奥さんと一緒に、戸田先生のことを語らない日はないんだ。映写機のように、当時の情景が浮かんでくるんだ」と言われていました。
リオデジャネイロの空港でのアタイデ総裁との出会いの直後には、「不思議な方だ。戸田先生が迎えてくださったような気がした」と述べておられました。実際、総裁と戸田先生は、1歳程しか年齢は変わりません。
その総裁は、94歳の老軀を顧みず、何と到着の2時間前から先生を待ち続けておられました。「別室で休んでは」という出迎えメンバーの勧めに、「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何ともありません」と答えられました。先発隊として、空港で先生を待っていた私も、その言葉を直接聞きました。
総裁は当時も、ブラジルの有名な日刊紙のコラムに健筆を振るい続け、先生のリオ滞在中も連日、掲載されていました。
「我々は人類の運命の行方を決める一人、池田大作氏を迎えることができた」
「氏は、『武力』を『対話』に変え、相互理解と連帯の力が、すべての悪の脅威に打ち勝つことを教えたのだ」と。
そして、先生との対談集『21世紀の人権を語る』の発刊にも全力を注がれたのです。
リオでの滞在2日目には、池田先生は「私は、このリオの地に、戸田先生とご一緒に来ていると思っている」とも語っておられました。
戸田先生の生誕の日である2月11日に行われた、リオデジャネイロ連邦大学からの名誉博士号授与式の謝辞では、「貴大学からいただいた尊き称号を、私は最大の誉れとし、わが恩師に捧げたい」と宣言されました。
この日、戸田先生の出獄後の半生をつづる、小説『人間革命』全12巻の新聞連載が完結し、先生は「あとがき」を書かれます。そこに、「先生の偉業を世界に宣揚することは、弟子としての、私の使命である」「創価桜の大道を行く私の胸のなかに、先生は今も生き続けている」と記されました。
池田先生は常に、どんな時も、戸田先生のことを考えておられました。私たちも、常に師を思い、師と共に歩む人生でありたいと思います。

ブラジルのイケダヒューマニズム交響楽団が、同国の日系5団体主催の天皇陛下の生誕祝賀会で演奏(2月)
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