特別編「民衆勝利の大叙事詩」 2020年08月06日 |
小説「新・人間革命」起稿(1993年)脱稿(2018年)の日 きょう8月6日は、広島「原爆の日」。原子爆弾が史上初めて実際に使用され、75年となる。池田大作先生は1993年のこの日、小説『新・人間革命』を起稿した。以来、世界に対話の波を起こし、平和建設への「弟子の道」を書き記して25年。2018年の同じ8月6日、全30巻に及んだ民衆勝利の大叙事詩を書き終えた。『人間革命』執筆開始からは、世紀をまたいで54年。その壮絶なペンの闘争を「師弟凱歌の記憶」特別編としてたどる。 ![]() 油彩画「起稿の朝」(内田健一郎作)。池田先生が小説『新・人間革命』の筆を起こした日の情景を描いた 8・6広島「原爆の日」に書いた冒頭の一節 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」 ![]() 「一九九三年八月六日 広島原爆投下の日 書き始む 全三十冊の予定なり」――小説『新・人間革命』執筆開始に当たって記された池田先生の原稿 ――この日から、恒久平和建設への新しき鐘が鳴り渡った。 ――この日から、金色燦たる創価の師弟の新しき大道が開かれていった。 ――この日から、池田先生の、命を削っての新しき激闘の歴史が始まった。 1993年8月6日。先生は、多くの青年と共に、長野研修道場に遠来の賓客を迎えた。 インド国立ガンジー記念館館長(当時)のN・ラダクリシュナン博士である。“独立の父”マハトマ・ガンジーの孫弟子に当たる著名な平和活動家だ。翌日には、広島市内での講演会を控えていた。 ![]() 小説『新・人間革命』執筆開始の日、インドのN・ラダクリシュナン博士と会見。池田先生は、“人生は戦いです。「精神闘争」が人類を高めてくれます”と。人類の進歩に果たす宗教の役割などを巡って縦横に語り合った(1993年8月6日、長野研修道場で) 原子爆弾が広島に投下されてから48年となったこの日。博士はガンジーが全ての暴力を否定し、“「魂の力」は原子爆弾よりも強い”と話していたことに触れ、語った。「この、誰もが持つ『魂の力』を引き出し、平和を生み出していく。これこそ池田先生が進めておられる運動です」 会見で先生は、一枚の原稿用紙を手に取り、博士に紹介した。 そこにはこう記されていた。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」 この日に書かれたばかりの『新・人間革命』の冒頭部分だった。 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」から始まる小説『人間革命』と、対をなす書き出しである。 インドや日本等で出会いを重ね、池田先生の著作を読み込んできた博士は、今も長野での語らいを鮮明に記憶するという。「原稿を見せていただいた時、私が率直に思ったのは、“池田先生は師匠の夢の実現のために生きている指導者だ”ということでした」 師との“最後の夏” なぜこの日、この地で小説『新・人間革命』の筆を起こしたのか――。 池田先生は1957年8月、恩師・戸田城聖先生に呼ばれ、長野・軽井沢へ急行。共に浅間山の鬼押出に足を運び、師弟の語らいのひとときを過ごした。 大噴火で流れ出た溶岩が織り成す奇勝を眺めつつ、師は“大自然の現象も、仏法の法理に照らせば明らかになるものだ”等と縦横に語った。「ほかに、何か聞きたいことはないかね」 池田先生は戦争の脅威、中でも原水爆こそ現代の最大の脅威ではないかと尋ねた。東西冷戦の中、世界が覇を競うように核実験を繰り返していた。 「そうだ。そうなんだよ。私も、最近、この問題について、考え続けているんだよ」「なんとしても、原水爆の廃絶への道を開かねばならぬ。そこに創価学会の使命もある」 恩師は逝去の8カ月前。体は衰弱しても、その心には、核軍拡という人類滅亡への道を止め、恒久平和を実現するとの闘魂が赤々と燃えていた。そのためには、断じて世界広布を成し遂げねばならない――。 池田先生はこの夏に、師の生涯と精神を正しく伝える小説『人間革命』の執筆を固く誓った。それが全12巻で完結をみた後、続編となる『新・人間革命』をつづるにいたった理由を「はじめに」で述べている。 「続編として、『新・人間革命』の執筆を思いたったのは、先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたからである」「恩師の精神を未来永遠に伝えゆくには、後継の『弟子の道』を書き残さなければならない」 壮絶な執筆闘争 ![]() 「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」――小説『新・人間革命』の書き出しが記された原稿 「はじめに」は、こう続いている。 「『新・人間革命』は、完結までに三十巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」 『人間革命』は、多忙を極める中での執筆であり、完結までに28年余を要した。先生は、新聞小説を続ける日々がどんなに過酷な道のりかを誰よりも熟知していた。 “続編”の連載は、初代会長・牧口常三郎先生の五十回忌に当たる1993年11月18日付の聖教新聞からスタートした。山本伸一が師の遺志を継いで、アメリカ、カナダ、ブラジルへと、世界広宣流布の第一歩を踏み出す場面から始まった。 小説の中の伸一は、32歳の青年会長。 一方、この執筆開始時、池田先生は65歳。広布の水かさも、平和・文化・教育運動の厚みも大きく増していた。先生は、若き山本伸一に勝る勢いで、平和への行動を続けていた。 例えば――。 『新・人間革命』第1巻の「開拓者」の章が連載中の94年5月から6月、ロシア、欧州を歴訪。 モスクワ大学での講演、ゴルバチョフ元大統領との会見、イタリア・ボローニャ大学での講演、フィレンツェでの「日本美術の名宝展」、英チャールズ皇太子との会見、グラスゴー大学名誉博士号授与式等に臨んでいる。その間、第18回SGI総会に出席するなど、寸暇を惜しんで同志を激励した。その中で、連載は続いたのである。 海外への平和旅に備えての、事前の原稿執筆、ゲラ刷りのチェックなど、どれほどの辛労であったか――想像に余りある。 テープに吹き込み ![]() 池田先生が『人間革命』の原稿を吹き込んだオープンリールテープ。高熱の中でも“執筆”は続けられた 広宣流布の指揮をとりながら、小説の新聞連載を続けることが、いかに至難であるか。小説『人間革命』執筆の際には、激しい疲れと発熱のため、口述をテープに吹き込んで原稿を作ったこともあった。 その場面が『新・人間革命』第14巻「烈風」の章に描かれている。 同章で中心的に記されているのは、69年12月の関西・中部指導。肺炎による高熱を押して訪れた和歌山の会合では、「武田節」を舞って参加者を鼓舞した。 その先生の姿は、今も関西をはじめ多くの同志の胸に焼き付いている。 学会はこの時、悪意の中傷が発端となった、いわゆる「言論問題」の嵐の中にいた。 年が明けても、先生は激しい疲労と熱が続く中で、広布への力走を止めることはなかった。しかし、どうしてもペンを握ることが困難になった。先生は、執務室に運び込んだテープレコーダーに向かい、口述での“執筆”を行った。 「彼は、口述を始めると、すぐに息が苦しくなった。痰が喉に絡み、咳が止まらなくなることも少なくなかった。額には、脂汗が滲んだ」(「烈風」の章) 先生は一切の障魔の矢面に立ち、仏と魔との熾烈な戦いの指揮をとりながら、全同志に勇気と希望を送り続けたのである。 香峯子夫人の支え ![]() 香峯子夫人が筆記した小説『人間革命』第9巻「発端」の章の原稿。欄外には、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と池田先生の字で記されている 第20巻「友誼の道」の章には1974年5月の初訪中の模様が描かれている。 国交正常化から2年弱。両国友好に大きく貢献した創価学会会長の初訪問は注目を集め、訪中記の執筆依頼が重なった。中国の実像を伝えようと、先生はこれらを引き受け、訪中の終盤から、時間を見つけては筆を走らせていたという。 むろん、当時の先生には小説『人間革命』の締め切りも待っていた。 帰国直後に記された第9巻「発端」26の原稿の欄外には、「六月二十五日。会長より口述、筆記する。香峯子」との書き込みがある。6月16日の帰国から、9日後の原稿である。 また、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と、欄外に書かれた原稿も残されている。 卑劣な謀略による第1次宗門事件の渦中にあっても、宗門僧らの批判を覚悟で、「苦労している同志に勇気を送りたい」と、『人間革命』第11巻の連載を開始している。この時も、体調が優れず、記者への口述で連載を重ねた。 永遠に指揮をとる ![]() これまで海外13言語に翻訳されている小説『新・人間革命』。『人間革命』と共に、“信心の教科書”、創価の“精神の正史”として読み深められている その苦節の歳月を経て始めた『新・人間革命』の執筆である。連載期間中、長期の休載はなかった。むしろ、章と章の間の短い休載期間を埋めるように、1998年1月からは、随筆「新・人間革命」の掲載が始まった。 第1回は、新年号に続くその年の最初の新聞である1月4日付。タイトルは「日に日に新たに」。若き日の日記に記した、10歳から60歳までの10年ごとの人生の節目と目標を述懐し、こうつづった。 「ここに、六十歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。 七十歳まで……新しき人間主義の哲理を確立 八十歳まで……世界広布の基盤完成なる哉 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」 当時の先生は70歳。 『新・人間革命』完結への歩みは、そこからさらに20年間続いていく。 終わりなき師弟旅 『新・人間革命』の起稿から四半世紀を経た2018年、池田先生は、執筆開始と同じ8月6日、長野の地で執筆を終えた。そして新聞連載は、恩師の「原水爆禁止宣言」の発表の日となる9月8日付で完結を迎えた。前作の『人間革命』執筆開始から数えて、実に54年。連載回数は『人間革命』1509回と『新・人間革命』6469回を合わせて、7978回に上り、日本の新聞小説史上、最長の金字塔となった。 現在では『新・人間革命』だけでも13言語に翻訳され、世界中の同志が胸中で師弟の対話を重ねつつ、日々、自身の人間革命に挑んでいる。 池田先生は、『新・人間革命』の「あとがき」に記した。「完結を新しい出発として、創価の同志が『山本伸一』として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から念願している」 「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と願った戸田先生。その偉業を世界に宣揚し、「戦争の世紀」を「平和の世紀」へ転じゆく大長征を続けてきた池田先生。その不二の師弟に続き、生命尊厳の世界の建設へ、恒久平和の世紀の創造へ、出発する決意を、広島「原爆の日」75年のきょう、新たにしたい。 ![]() 世界中の同志が今、小説『新・人間革命』をひもとき、人生勝利の糧にする(イタリアの友) ![]() ペルーの友も朗らかに学ぶ |