第18回
広布源流の山口開拓指導 2020年10月10日

1983年4月、山口広布開拓27周年記念の県総会で先生が贈った「広布源流」の書。脇書には「山口の友に贈る也」と

妙法流布の道なき道を切り開き、“広布源流”として広布史に刻まれる山口開拓指導。それは、師弟の一瞬の呼吸から始まった。

1956年(昭和31年)9月、広布の伸展と社会の動静を鋭く洞察した戸田城聖先生は、弘教の遅れていた山口県の折伏の指揮を、青年部の室長である池田先生に託した。

「はい! やらせていただきます」。池田先生は間髪入れず即答。綿密な計画のもと、全国各地から、山口県に縁故のある百数十人の同志が“開拓指導”に参加することになった。

池田先生は10月9日の早朝、山口県の下関に第一歩をしるした。岡山から夜行列車での移動であった。旅の疲れも見せず、直ちに激闘が開始された。

「大阪の戦い」と同様、一日の活動は、朝の勤行と御書講義から始まった。先生は講義を終えるや、「さあ、きょうも頑張ろう」と立ち上がり、率先して行動を開始。県内各地を駆け巡り、“折伏座談会”に、人材の発掘・育成にと、全精魂を傾けた。

師子王の気迫が各支部からの派遣員の闘魂に火を付ける。先生が出席した座談会では、入会を決意する人が相次いだ。

さらに先生は、派遣員が思う存分に活躍できるよう、細かく心を砕いていた。長期の滞在で心配しないようにと、家族宛てに激励の手紙も書いた。食事の際には皆の茶わんにご飯をよそって、労をねぎらうこともあった。

池田先生は後年、振り返っている。「『この瞬間は二度とない』という決心で戦った」と。

山口開拓指導の際に撮影した記念の一葉(1956年11月16日、柳井市で)

先生は、10月だけでも、下関、防府、山口市、岩国、柳井、徳山(現・周南市)、宇部と転戦。11月には萩にも足を運び、翌年の1月も山口県へ。

計3回、延べ22日間に及ぶ開拓指導で、同県内の会員世帯数を約10倍に拡大させた。戸田先生と池田先生の師弟不二の呼吸、異体同心の同志の団結で築いた勝利の金字塔であった。

57年(同32年)1月28日、山口での一切の予定を終えた池田先生は、日記に記した。

「宿命打開と、広布の布石に、全力傾注の闘争せり。その実証、いつの日に出づるや」

山口開拓指導による飛躍の勢いは全国に波及。戸田先生の悲願であった75万世帯の達成への大原動力となったのである。

師の“開拓魂”を受け継ぐ中国方面の友は今、「人材の中国」の実証を輝かせながら、新たな師弟の共戦譜をつづる。