第10回『総務』として奮闘」
2020年06月25日

恩師の肉声を残そうと、池田先生が主導して制作したレコードの一つ。戸田先生と識者の対談が収録されている

第2代会長・戸田城聖先生の逝去から3カ月になろうとする1958年(昭和33年)6月30日。池田先生は、新設された役職で、学会の運営を統括する「総務」に就任した。以来、学会の実質的な指揮を執ることになる。

先生は当時、戸田先生の精神を正しく継承することに全力を注いでいた。この頃の日記には「生死不二なれば、先生、今ここにあり」「私は戦います。先生、見ていてください」との誓いの言葉が連なる。

59年(同34年)の元日には、池田先生の提案で戸田先生の講義の録音テープを聴いた。「歳月は、精神を風化させる。学会にあっては、それは、広宣流布の破綻を意味する。彼は、戸田の叫びが、薄らいでいくことを憂えたのだ」(小説『新・人間革命』第23巻「敢闘」の章)

池田先生は恩師の講義や質問会での指導などを収録したレコードの制作を推進。1枚目は「可延定業書」の御書講義で、同年の7月に完成した。ジャケットを飾る「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」との力強い金文字は、池田先生の筆によるものである。

元日に戸田先生の講義を聴く(1959年1月、東京・信濃町で)

総務としての先生の激励行は、全国に及んだ。御書講義で、質問会で、一人一人を奮起させていった。恩師亡き後、“学会は空中分解する”と世間がうわさする中で、同志の不安を晴らし、新たな前進への勇気を送った。

59年(同34年)1月には、炭労事件の舞台であった北海道・夕張へ赴いている。出迎えた同志に「戸田先生のお約束を果たすために、ここ夕張へ、まいりました!」と語った。

前年の3月、夕張から静岡に駆け付けた女子部に戸田先生は言った。「学会員をいじめる権力は、許さない! 戸田が、夕張に行ってあげる。夕張は青年が立ちなさい。青年が立て! 青年が立て!」。その脇で恩師に寄り添っていた池田先生が、亡き師に代わって“約束”を果たしたのである。

池田先生は後に戸田先生への感謝をつづった。「現在の私は、あの約十年にわたる師匠・戸田先生の訓練なくして存在しない」「私は、師匠に育てていただいたこの生命を、師の悲願であった『広宣流布』――民衆の幸福勝利のために捧げるのだ!」

不二の弟子の戦いによって、師の構想は現実となる。若き日から広布の一切の責任を担った先生の闘争が、それを証明している。