第7回 永遠なれ 友好の『金の橋』 2020年05月28日 |
![]() “新しい時代の扉は、待っていては開きはしない”――英国領だった香港の羅湖駅から徒歩で中国へ(1974年5月) 池田先生の初訪中は1974年5月30日。まだ中国への直行便がない時代だった。 なぜ中国へ行くのか。小説『新・人間革命』「友誼の道」の章には、中国への第一歩に当たり、アジアの平和と民衆の幸福を願い続けた戸田先生の真情を、山本伸一が述懐する場面が描かれる。不二の弟子として、何をなすべきか――「思索を重ねた結果、中国と友好を結び、確かなる交流の道を開かねばならぬと、心に深く決意したのである」と。 初訪問に先立つこと6年、池田先生は68年9月8日に「日中国交正常化提言」を発表。「アジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめ」として、日本と中国の関係改善を訴えた。 提言発表後、学会本部には嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。中国との友好を口にすれば、身の危険も覚悟しなければならない時代だった。しかしその後も先生は、新聞連載中の小説『人間革命』で日中平和友好条約の締結を提唱。歴史と未来への大局観に基づく信念は揺るがなかった。 ![]() 周恩来総理が愛用したペーパーナイフ㊧と鄧穎超夫人が愛用した筆立て。ともに鄧夫人から贈られた それらの行動を、じっと見つめていたのが周恩来総理であった。74年12月5日、先生の2度目の訪中の折に「池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない」と、病身を押して一期一会の会見。共に繁栄するアジアの未来を展望した総理の思いは、池田先生に託された。 以来、約半世紀。池田先生の訪中は10度に及ぶ。山あり谷ありの日中関係にあって、先生は平和・文化・教育の交流をたゆみなく推進し、青年部や婦人部などの派遣団交流をはじめ、幾重にも民間交流を進めてきた。 ![]() 池田先生が1981年に揮毫した書「金乃橋」 先生は語る。――民衆は海であり、民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船も行き交うことができる。――いかなる風雪があろうと、“海”さえあれば、船は前進し、往来は続いていく。ゆえに民衆交流こそ、揺るがぬ平和を築く王道である――と。 原点を忘れず、先人の労苦に学ぶ。次世代にその志があれば、友好の「金の橋」は万代に続く。 |