
池田先生が1983年3月18日にしたためた「勇戦」の書
威風堂々たる「勇戦」の書。縦1・7メートル。日付は「三月十八日」。1983年(昭和58年)のこの日、関西文化会館で揮毫された。
この年から27年前の「大阪の戦い」で、先生は、「勇戦」の書を同志に書き贈っていた。それを長らく保管していた同志が真心を込め、“お返ししたい”と申し出た。“その代わりに”と、池田先生が改めて筆を振るったのが、この「勇戦」の書である。
“これからも、共に勇気を奮い起こして戦い勝とう”――師弟の闘魂が脈打つこの二字に触れると、どんな嵐をも、必ず勝ち越えようとの決意が燃え上がる。

戸田先生も出席した大阪・堺2支部連合総会で登壇する池田先生。2万人の同志は雨が降りしきる中、拍手し、歌い、涙し、決意した。「大阪の戦い」は常勝関西の原点である(1956年4月8日、当時の大阪球場で)
「大阪の戦い」――それは、56年(同31年)の年頭、池田先生が大阪を訪れ、勢いよく始まった。
学会はこの頃、約30万世帯。恩師の悲願であった75万世帯の弘教を成就するには、関西に民衆の大連帯を築かねばならなかった。
青年部の室長だった池田先生は前年10月、戸田先生から大阪派遣を命じられた。師の心を誰よりも知る弟子は、広布開拓の活路を開こうと、覚悟を決めた。「私の使命はただ一つ。この関西に、難攻不落の錦州城を築くことであった。そのために、私は全生命をなげうって、断じて勝ってみせるとの決心であった」
大車輪の戦いが始まった。
焦点は、強盛な祈りを根本に、徹底して信心の闘士を育てることだった。
毎朝、関西本部で御書講義を行い、仏法の確信を烈々と語った。夜まで一軒一軒、駆け巡った。「行く先々で『まだ、時間がある』『まだ、励ませる』と動くうち、日に二十五、六会場を回ったこともある」と池田先生は述懐。
誰もが口々に、“あんなに楽しかった戦いはない”と振り返った。

力強く「勇戦」と大書する池田先生(1983年3月18日、大阪市の関西文化会館で)
池田先生は時間を惜しんで、はがきや手紙にペンを走らせた。「一念に億劫の辛労」を尽くして祈り、会えない友とも心を結んだ。
「立ち止まることもできず、手を振り、目で挨拶を交わしながら、心で題目を送った時もある。
たとえ一瞬でも、心が触れ合えば、『仏縁』を結ぶことができる。ただ通り過ぎてしまえば、何も価値は生まれない」
大阪支部は3月、広布の歴史で初となる“一支部で5000世帯以上”の弘教を達成する。
魔も蠢動した。新聞が「暴力宗教」等と書き立てた。
池田先生は、いよいよ勇み立った。“「三障四魔紛然として競い起る」だ。学会が正しい証明だ”
迎えた5月、圧巻の金字塔となる1万1111世帯の弘教を成就したのである。
そして、師弟の無限の力を証明し、「“まさか”が実現」と世間をあっと言わせた、参院選の大阪での大勝利。偉大なる歴史を今、世界中の同志が、小説『人間革命』第10巻を通して学ぶ。
常勝の「カンサイ・スピリット(関西魂)」は、世界のあの地この地で、試練に立ち向かう友の心に「勇戦」の炎をともしている。
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