
戸田大学で使用した教材。戸田先生のもと池田先生が同志と学んだユゴー著『九十三年』(中央手前)には「昭和二十六年五月三日 恩師戸田会長ヨリ給ハリシ本也」と。恩師の第2代会長就任の日付である
師弟の出会いから約2年半。
経済がどん底に落ち込み、戸田先生の事業は最大の難局を迎えていた。1950年(昭和25年)の年頭、師は一人頼る弟子に言った。「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
池田先生は、前年秋から夜学を休んで師子奮迅の日々を送り、師の会社を支えていた。同僚は次々と去っていく。「はい。先生のおっしゃる通りにいたします」
まもなく、戸田先生の自宅で毎週日曜、御書や古今東西の小説を教材にした講義が始まった。やがてそれが政治、経済、歴史、漢文、化学と、万般にわたる個人教授、すなわち“戸田大学”になっていく。後に、会社の始業前に時間と場所を移し、数年間続いた。

“戸田大学”で一対一の講義を受ける山本伸一(小説『新・人間革命』の挿絵から、内田健一郎画)
池田先生は緊張感に満ちた一対一のやりとりを振り返っている。
――ある日の漢文の時間。
戸田先生が問うた。「『誠心を開き、公道を布く』という名句がある。その意味を言いたまえ」
池田先生は、記憶をたどり、言葉を振り絞る。「誠意をば人びとに表現し、そして公明正大な道を広く行き渡らせることである」
「だいたい、いいだろう」。恩師は笑顔を見せ、さらにたたみかけた。「出典は、どこだ?」
「確か、『三国志』だったかと思います」
戸田先生は黙って横を向いて、少しだけ頷いた――。

ホール・ケイン著『永遠の都』にも「昭和二十六年五月三日」の日付が
峻厳な真剣勝負の授業であった。メモを取ることも許されなかった。「いかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力を鍛えておくからな」。この恩師の心を池田先生は、全身で受け止めた。
「私は戸田先生から、訓練を受けきった……その薫陶を受けたことが、私の青春の誉れであり、幸福である」。不二の師弟の歴史は、校舎なき“戸田大学”から始まったのである。
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